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2016年2月13日土曜日

愛し合い 哀たしかめる 恋試合

世の人は私を厭世家と言うだろう。
表面見て判断するなら、存分に厭世家だ。

渋谷を歩いてるギャルを見ていると、ほとんどがAV女優に見えてくるし
バレンタイン商戦を見ていると
愛し合い
哀たしかめる
恋試合
と一句出来てしまった。

小父様と若者がごった返す夜のマクドナルドでメシを食ってるとベジタリアンになった友達を思い出した。

生きるために他を殺す、というごく普通なありふれた事に辟易としてるだけなのだ。
次はお前が殺すばんだし、殺されるかもしれない。
悲しいことだ。
それを厭世家というのかな。
歯向かったら殺されるし、歯向かわなかったら餓死。
一緒になって殺すしかない。
理性的なしごく真っ当な解答ではないだろうか。
しかし、お肉はおいしい。

ベジタリアンになった左翼の彼女は一体どんなバレンタインデーを過ごすのだろうか?

リベラルとか、社会のためとかほざいてもさ、一緒じゃん。
ほほえみもとまどいも意味をなくしていく。
すべては明日のため。
それでいいのだろうか。
感情ってなんだい。
邪魔な物でしかないじゃないか。
わからないなぁ。

理性的に行動して後悔することってあるじゃん。
理性的に行動したのにもかかわらずね。

感情で人生を棒に振る人も多い。
カジノでギャンブルに本気を出している人たちを見ていて思う。
競輪場、競馬場で本気を出している人も多いことだろう。

理性的に考えて、ギャンブルをやるのは、ハイリスクハイリターンな行為だ。
ギャンブルで財をなす人は数限られている。
しかし、夢を見てギャンブルをする。
面白いことに、私の知る限り、ギャンブルにはまる男達は、なぜかナンパをしない。
ナンパより、ギャンブルのほうが好きなようだ。
ナンパのほうがリスクが低いし、リターンが大きいと思うんだよなぁ。

そんなことを、永山則夫(死刑囚)の手記を読みながら思う。

2016年1月23日土曜日

自己肯定という名目で自己否定を続けた

「私はあんなヤツなんかと違うんだ」、と頑張って差別化し何とかしようとする人がいる。他己を否定することで、自己を肯定するという行為だ。
何とかしようとするが、その目的を観ると不快の解消がしたいだけなのだ。
しかし、当人は不快がコンプレックスな感情に起因しているとは気づかず、都合の良い理屈を夜な夜な練り出す。
理屈により自身を正当化し感情的に一時的にスッキリする。そして日はまた昇る。新たな不快とともに。
これの厄介な所は、一時的にスッキリする方法を知っている事だ。
だから、それ以外の方法を知ることは難しいだろう。
理屈は薬である。

言い訳とは、とある事象にさらに別の情報をつけたし(説明)する事によって相手の理解を得ようとする行為である。
理屈が薬になる良い例だ。
または、自己に対する欺瞞だ。
状況の理解を得て、さらに相手の同情を得るのが最高の言い訳になる。
「だって、何何だったんだもん。」
何何だったんだもん、と理由をつけて、障害を乗り越えて問題を解決する意志を感じられない。

最高の言い訳をしても、既に起きた事象は事象のままだ。
例を挙げてみよう。
すこし汚いが、最大のコメディだと思って読んでくれ。
半分実話だ。
ウンコを漏らしながら、レストランで飯を食う。
トイレが閉まってたと言い訳しながら。
漏らしてしまった事に関して同情も理解も得るかも知れない。
しかしながら、「席で飯を食いながら、する事を選んだ」事に関して直接的に関係はしてない。
トイレのドアの前で忍んでする事だって出来たはずだ。
それにも関わらず、周りに居る人に不快な思いをさせる事を選んで「トイレが閉まっていた」と言い訳をする。
言い訳して他人の不快な思いが消えるかっていうと、そうじゃない。
本人が誤魔化しているだけだ。

この手の人間は、煽りやすく、熱しやすく冷めやすい。
全うに注意して、話を聞いてもらえると「昨日までの俺は馬鹿だった。さらば自分。」みたいな事を言い始める。
自己を肯定するために、自己を否定する。
それも、その目的を観ると不快の解消がしたいだけなのだ。
注意を聞いてもらって、達成感があったが、その後の反応を見てがっかりした。
無限ループの突入だ。
私は以来、口をつぐんだ。

ムナシサを
ニゴシ誤魔化す
理屈かな