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2016年2月23日火曜日

東亜政治記

維新の党と民主党が合流決定らしいですね。
こうなってくると、参議院選挙どこに投票しようかなぁ、ってなりますなぁ。
この前の衆議院選挙も、結局だれにも投票したくない、という贅沢な悩みにぶち当たりましたよ。
そのとき、香港では普通選挙を守れって民主主義を守れって叫んでて、なんだかなぁ、って香港人と話した記憶がありますね。

投票に値する人間が立候補してないって、すごくシュールだなって思うんですよね。
北朝鮮の投票率は100パーセントで信任されているそうですが、日本では投票率の低下が問題となってますね。

自民党も公明党も民主党も維新の党も緑の党も幸福実現党も共産党も社民党も、公約読んだし、立候補者確認したけど、なんなんだ。って言うレベル。
投票してもらうためには大衆の賛同が必要で、大衆のウケを狙った事を掲げて演説なりしてさ。
組織票がある人たちは、なんか適当にやれば当選するって知ってるから、これといった事言ってないし、やってない。

無所属で当選したところで、やれることなんて短い質疑応答の時間でインパクトある質問するとか、天皇陛下に直訴状渡すとか、議論ではない次元での活動をせざるを得ない。
一生懸命質問したところで、ノラリクラリ。
大臣の言質取ったところで、二年後には別の大臣になってることで、そんなものに何の意味もなさない。

いつもスクープは週刊誌から始まってさ、国会議員同士でトンデモナイすっぱ抜きあいなんてしないし、なれ合いのプロレスみたいなもんで、そういうショーに大衆は飽き飽き。

アメリカの大統領選は、アメリカ人のお祭り好きという性質もあってか、大騒ぎするけど、日本と対照的過ぎる。

民主主義の最悪の形なんじゃないだろうか。
こういう時に、威勢の良いことを歯切れ良く言う人が出てくると、ウケる。
維新の始まりもそんな感じだったもんね。
アドルフ・ヒトラーも、そんな感じだったもんな。

台湾の政治活動も非常に躍起だよなぁ。
中国人の方が民主主義を理解しているのかもしれない。
それは、清朝が辛亥革命で民衆に打倒されたからか。
日本は武家の連中が錦の御旗取り出して起こした反乱であって、民衆が起こした反乱ではない。
民主主義は、民衆が命を張って得た権利というものがあってこそ、活きるのではないだろうか。

2016年2月22日月曜日

年功序列の不思議

年を取ったモノが偉くなる。
それが年功序列である。

この概念と、会社のポジションをごちゃ混ぜになると、ムチャクチャなことになる。
年を取ると、会社のポジションも上がるという仕組みだ。
人の上に立つとムチャクチャに権力を乱用する人がいたとする。
その人が、年を取って若い連中よりも偉くなると、権力を乱用しはじめる。
近所や地域という、比較的開けた組織の中ででかい顔するのは実害は少ないが、会社という閉鎖的な組織の中でデカい顔をすると、下の方はかわいそうになる。

不思議なもので、年を取ったらチームのリーダーくらいには成らないといけないらしい。
だれもがリーダーの素養があるわけではないのに、年を取ったらリーダーなのだ。
リーダー同士の格というのがあって、出世した老人、出世しなかった老人で差があるのは事実だろうが。
出世する能力がなかった老人も、出世するのが会社制度の中での年功序列だろう。
老人をいたわる事と、能力のない老人を出世させる事は同じ意味ではない。
不思議なもんだなぁ。

年功序列というと、部下が年上というのもある。
部下が年上だと、困るらしい。
扱いにくいというのだ。
うーん。
年上の部下は扱いにくい、というのも、年上には敬語を使うという風習。
そして、会社という組織では、部下は下。

上下関係という概念に囚われすぎだが、日本文化には上下関係は常につきまとっていたものだ。
ヨーロッパでも、上下関係というのは存在した。
教会がトップで、王侯貴族がそれに続く。
アメリカでも、軍隊や大学のスポーツ部やフラタニティーに上下関係は根付いている。
しかし、アメリカの上下関係は、やはりゆるい。

個々人は平等であり、組織の中にいるから上下関係があるという考えがある。
本音と建前だ。
上官の命令は絶対なんてことは、アメリカにはない。
アメリカにおいて、絶対なのは、民主主義と自由。
つまり、イデオロギーだ。
もちろん上官の命令に反して、組織に被害をもたらす部下はクビだ。
上官の責任でもあるからだ。
上官もミスったら、その上官にクビにされる。
非常にシビアな世界だ。
だからこそ、アメリカの大学はリーダーシップを重要視しているのだとおもう。
一人一人が、リーダーとしての視点で働く。
みんながリーダーで協調性があるのか。
それをなんとかするのが、イイリーダーなんでしょうね。

2016年2月21日日曜日

社会人という言葉を考えてみる

社会人。
会社人ではなく、社会人。

大学を卒業して就職すると、社会人1年目とかいう称号になる。
バイトしてようが、大学生は社会人ではないようだ。
どうやら、大学生は社会人ではないようだ。

言葉から考えるに、社会に属している人だ。
社会に属していない人なんているのだろうか?
日本人の親がいれば、日本人になってしまう法制度の日本国において、社会に属していないという状況は、とてもじゃないか思いつかない。

働いていない人は社会人なのだろうか?
どう考えても、社会人だろう。
NHKが集金に来るだろうし、年金も、住民税も、色々と社会に属したくなかろうが、社会に属している。

しかし、社会人とはそういう事を言っているのではなさそうだ。
おそらく、ふわっとした概念の言葉で、厳格な定義とか求めていない。

中学卒業して、社会人。
高校卒業して、社会人。
大学卒業して、社会人。
などの使われ方を見ると、どうやら社会で働いている人を言うのだろう。

さて、自営業で親の会社の手伝いをしている青年は社会人なのだろうか?
そうしてみると、専業主婦は社会人なのか?
隠居した老人は社会人だろうか。
彼らとて、社会人ではあるが、何せ言葉の定義が曖昧だから、よくわからない。

だったら、逆の発想をもって考えてみたらどうだ。
社会の反対。
反社会。
反社会勢力という言葉を最近よく見かける。
おそらく、その構成員は反社会人になるのだろう。
しかし、彼らも社会に属している。

どうして私がこんなに困っているかと言うと、社会人という言葉の英単語が見つからなくて、「社会人」という概念は日本文化のモノであると感じたと同時に、その概念の不明瞭な意味に戸惑っているからだ。
社会人。
社会を構成している人と、した場合、Citizen(市民)が妥当な言葉かもしれない。
だが、「大学卒業して市民になるんだ。」なんて、言う人はいない。
だって、大学生も市民だもの。

そう考えると、社会人という言葉は複数の定義を持つと考えるのが妥当なのかもしれない。
ひとつは、社会を構成し、社会に属す人のこと。
もうひとつは、労働者。

なんか、しっくりこないなぁ。
だったら、社会主義・共産主義の社会なんじゃねーの?
って考えてみましょう。
社会主義者って意味じゃないよ。
社会とはなんですか?って事よ。

社会とは、英語で言うソサエティー。
ソサエティーって、二つ意味があって、一般社会という意味もあれば、お友達会とか上流社会とかの意味がある。
ギルドのような、とある集団って意味。
そういう家族ではない集団に属している人、社会人。
って事なのか?

まー、どーでもいいや。

2016年2月20日土曜日

知っている日常

難しいこと書こうと思ったけど、めんどくさいからいいや。

という訳で、どうでも良いこと




売店である男を見た。

彼は白人だった。

彼は数あるフードの中からカップラーメンを選びレジへ。

彼は売店内でお湯を入れると

テーブルにラーメンをそーっと起き

蓋の上に彼の「武器」を置いた。

少しの間、彼はそわそわしながら待っていた。

数分後、彼は蓋を外した。

彼の眼鏡は曇った。

しかし、無視である。

彼は麺をすくい上げて

二回ほど空中で上下した後

息をかけてさました。

至って日本ではありふれた光景であるが

アクターは白人である。

わたしは日本人を見るかのように彼を見ていた。

そして、次の瞬間、違和感を感じたのだ。

普通のプロセスを書いてみよう。

「麺ふーふー

ずずずずずずずず

はふはふはふ

すんすん(鼻をすする音)」

しかしながらカルチャーの差

「麺ふーふー

・・・・

・・・・

・・・・」

も、、、物足りない

やっぱり

ラーメンはラーメンであって欲しい。

熱いスープ

熱い麺



曇る眼鏡

たれてくる鼻

そしてあの麺をすする感じ。

わかるだろうか?




見慣れた光景だが、見慣れていない。

なにかが少しだけ違う。

そんな生活をずっと続けると、なにかが少しだけ違うのが日常となる。

そして、なにも違わない日常というのに違和感を覚える。

それでも僕は生きていく。

2016年2月18日木曜日

アメリカ合衆国とアップルコンピューター

アップルが書簡を発表しましたね。
アメリカの企業なら当たり前のことですし、アメリカ人なら当然の選択だと思います。
そう思ってしまった、私は大分アメリカに感化されてしまったようで、これから日本で生活する際に色々とカウンターカルチャーショックを経験するのだと思います。

アップルは、民主主義のために、アメリカ合衆国のFBIの要求をお断りすると言いました。
これは一体どういうことなのか。
視点を変えれば非常に明快単純なんです。
私も、今後忘れないようにここに書いておこうと思います。

社会の時間に、憲法は国の最高法規と文言を習いました。
これは暗記してテストに備えるというもので、よくよく理解しておりませんでした。
刑法とか民法より上の法律だって事らしいんですが、意味が不明ですね。

憲法とは何か。
アメリカの憲法と歴史的背景を考えると、簡単にわかります。
その昔、イギリスの植民地支配が嫌な人たちが団結しました。
その時に、団体のルールを決めました。
Constitutionというものですね。
この団体というのが、アメリカ合衆国であり、ルールというのが憲法です。
イギリスでは、Constitutionというより、長い歴史の中で作られた一部の重要な法律が憲法扱いを受けるという点で、何所の国も違う法制度を持っている事を目の当たりにします。

アメリカにおいて、アメリカの団体としてのルールに従う。
アメリカ人は、このルールを尊重し、従う。
政府も、このルールに則り法律を制定し、施行する。
企業も、このルールに従う。
例え、アメリカ合衆国政府の要求を突っぱねる事になっても、このルールに従う。

アメリカ合衆国憲法前文:We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.

拙訳:我々アメリカ合衆国の人間は、より完璧な連合を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を確実にし、共同の防衛を提供し、一般福祉を増強し、そして我々と我々の子孫の自由の恩恵を確保する目的をして、ここにアメリカ合衆国ののためにこの憲法を制定し、確定する。

こんなハッキリとした前文があるものだから、明快すぎる。

FBIのアップルへの要求はiPhoneに、バックドアという誰でもアクセスできる裏口をひっそりと作ってくれというものだった。
アップルは、それは出来ないと言った。
理由は、技術的観点から言って、リスクが大きいという事。
そして、アメリカの憲法に反しているという事だった。

日本の憲法は公共の福祉に反しない限りの自由を認めていて、アメリカのそれとは異なる。
アメリカは、公共の福祉という名目で悪がはびこるという考えを持っているように私には見受けられる。
例を挙げるならば、ベトナム戦争だ。
世界の自由と民主主義のためという名目で戦争を始め、実際はそうではなかったと思った民衆は戦争に反対した。

それだけ、個人個人の権利というものを重要視している国だと言うことだ。

2016年2月17日水曜日

学者に二種あり

先日ね、私の一番弟子と久しぶりに会ったのよ。
彼とはかれこれ5年のつきあいになるね。
たったの5年だけど、今後の彼の飛躍を考えると、頼もしい気持ちで一杯だよ。
私なんかより、断然出来が良い。
名選手、名監督にあらずと言うけど、名監督、名選手にあらずでもある。
私は失敗ばかりして失敗から色々学んだけど、しなくてもいい失敗ってのもある。
それをよく聞いて、理解して、避けて進んでくれるってのは、ありがたい限りだよ。

彼もまだ23とかだから、若者らしく人生なにをしたらいいか分からない、まだそんな年頃で。
色々と経験をしているけど、芯となるモノが欠けている感じ。
本人もそれを分かっていて焦っているんだけど、焦る必要も無いけどなぁ、と横目で見ながら思っていた。
若気の至りってそんなもんだ。

日米のベンチャー企業の違いを彼から聞いた。
また、私自身、思ったことを綴っていこうと思う。
この記事は思索の途中の雑記になる。
読者諸君も同じく思索して欲しい。

アメリカ政府主導でベンチャー企業を推進するプログラムがある。
SBAと呼ばれる部署で、各省庁から金を引っぱってきては、ベンチャーに投資をしている。
この投資先というのが、主に大学出の博士号を持っている人たち。
工学系は勿論のこと、社会学、心理学、教育学など様々な分野にわたり、その分野の特許などを保持している人たちが中心となって、事業を興す。

日本も、アメリカほど活発ではないが、似たようなシステムがある。
学者風情が商いに手を出して、成功するはずがないという風潮があるような気もする。
たしかに、アメリカのトロフィースクールと呼ばれるトップ大学のビジネススクールの生徒は生き馬の目を抜く様な眼をしていて、いかにも、という雰囲気を出していた。
そんな世界に、好奇心旺盛の眼をした学者が入っていったら、眼を抜かれてしまうのも、わからないでもない。

ベンチャーというと、フェイスブックを思い浮かべる人が今のご時世多いだろう。
ウェブサービスを提供する会社だ。
昨今のITベンチャーブームは、特許保持者が始めるより、アイディア
保持者が具現化している所がある。
特許もアイディアなんだが、日本の場合社会科学での博士に金を出している連中はアメリカと比べて少ない。

また、工学系の博士は、そのまま日本のメーカーへと流れていく。
ここが、アメリカと日本の大きな違いではないだろうか。
現在のソフトウェア全盛の時代の少し前、ハードウェアの時代を振り返ってみる。
そうすると、アメリカのフェアチャイルドやらインテルやらのシリコンバレーのスタートアップをしていた時代に、日本ではメーカーが社内の研究所で開発を進めていた。

アメリカで研究開発をしていたのは博士号所持者だったが、日本のメーカーで研究開発をしていたのは博士号所持者ではない。
ここが、一つの大きなミソだ。

批判的思考とは何か、という拙著の記事を思い出してもらいたい。
日本の大学では全く問題にされていない課題であり、さらに日本の大学出の人たちが就職するために受ける試験でも、問題にされてはいない。
彼らが課題として課されるのは、決められた事を与えられた時間内で素早く正確に答えることであり、答えのない問題を考え続けることではない。

答えのない問題を考え続けること。
実はこれ、アメリカでは、大学で教えられるんです。
そして、アメリカでは、答えのない問題を考え続けることは、一部の学者のような知的な人たちだけがやってるんです。
何故なら、彼ら学者は、そう訓練されたからです。
それ以外の人たちは、そんな事しないのです。

研究開発に答えはありませんから、答えを見つけ出さないといけません。
そんなの、実は、みんな出来るはずなんですよ。
実際にやってきたのが、日本ではないでしょうか。
だから、博士なんか取って学者なんかにならなくても、研究開発の仕事が出来るようになる。
そして、批判的思考なんかも、導入する必要がなかった。

日本では、学者とは、ただの物知りです。
彼らが独自の論点を主張するのをあまり見たことがありません。
主任やら先輩やら恩師やら孔子やらが言ったことを暗記して、必要に応じて思い出す人たちです。
クイズ番組に出てくるインテリさんたちもそうでしょう。

いや、もちろん、立派な学者さんも日本にはいますよ。
理化学研究所とかに。
だけど、私は、日本にいる物知りなだけの学者というのが、アメリカにいるのか、と思ったんですよ。
アメリカという国の教育を見る限り、物知りを作る事に重点を置いていない。
また、日本という国の教育を見る限り、独自の論点や主張という事に重点を置いていない。

独自の論点や主張がなく、過去の繰り返しでは、イノベーションは出てこない。
温故知新とは、新しい気づきだが、その新しい気づきの芽を伸ばしてこそのイノベーションだ。
答えのない問題を考えるにあたって、知識量が多い方が良いとは思うが、ただの物知りになっては駄目なのだろう。

2016年2月16日火曜日

ある日のシアトル

闇雲に歩くと今年一番の冬のにおいを感じた。
ワシントン大学からブロードウェーまでは坂道をのぼる。
高速の入り口があって、交通量が結構おおい。
その坂をのぼって、消防署の前を通り、公園の横を通り過ぎる。
この公園はアメリカに来たばかりの頃、タバコをサウジアラビア人からもらってチェーンスモーキングをして、ヤニクラでゆっくりしていった公園であった。
この公園でゆっくりした後、ホームステイ先まで歩いて帰ったのを思い出した。
本当に苦しかった。
そして少し歩くと、豪邸みたいな屋敷の横を歩き、教会を複数ぬけ、見晴らしの良いところを抜けて、まだまだ続く緩やかな坂を歩いていき、ようやくブロードウェーにたどり着くのだ。
ブロードウェーの始まりはカフェ、映画館、日本食、銀行で始まり、タイ料理タバコ屋ギリシャ料理云々。

再開発で大分変わってしまったなぁ。

前から歩いてくる、眼鏡をかけたひげを生やした白人の如何にも中産階級という労働者はタバコを旨そうにのんでいた、
学生街とは違い、ここではタバコは普通のものに感じられる。
スーパーの前で小銭を求められても、困りますよ。
いぬかわええなぁ。
新聞はいりません。
おっ、ベトナム人の集団だ。
ディックスハンバーガーでゲイのカップルの口論。
黒人のおじさんがホームレスに好きなだけ食えって言ってハンバーガーをおごってた。

大学で用事をすませて、外にでる。
チェーンスモーキングをした広場でゆっくりしていこうと思ったら、オキュパイシアトル、っていうね。
相変わらず極左な大学だなぁ、としみじみ。
ピザを食ってると99%の人がいた。
俺はどっちなんだろう。
ピザ食べるかい?と誘われても、困りますよ。
すこし話すと、別に悪い人でもない。
お金持ちが全てを奪うのはおかしい!って。

話してるとバスが通り過ぎた。
なるほどね。こういう時はあるもんだ。
歩いて家に帰った。

2016年2月15日月曜日

人類学アレコレ

人類学の大前提は人に変わりなしという、平等主義にもとれる発想だ。 
私と彼は違う。 
一緒にするなと個性を追い求めてる人は言うかもしれないが、やはり大して変わらない。 

先日、田園調布に自転車で行ってきた。 
東京の高級住宅街に古墳があるというからおもしろいものだ。 
古墳の横には小さな博物館があるという、是非とも見に行きたいと思い、自転車で多摩川の土手を走りカメラを持って行った。 
自転車のチェーンの鍵を忘れるという失態を犯したものの、博物館の玄関の前に自転車を置き、受付の人に頼んで、監視してもらった。 

小さな博物館だった。 
博物館の中には、関東圏の古墳から発掘された物を展示してあった。 
武器に装身具、当時の生活形態、そして埴輪。(土偶じゃないよ) 

多摩川の下流域にあたる、このあたりは、多摩川の潤沢な水資源と、肥沃な大地があり、5世紀頃には上野毛国という大きな集落があったと、日本書紀には記されている。 
関東圏には他にも国があり、勢力抗争は絶たなかった、という。 
傲慢な王に反対する勢力が大和朝廷に泣きつき、連合軍として王を追い出し、関東圏は大和朝廷の支配下に入ったと日本書紀には記されているそうな。 

史記には様々な人間が登場してくる。 
その多くは王国の王様であったり、その親類であったり、武官文官であったりする。 
ある者は王と親類を殺し、自らが王であると名乗り。 
ある者は殺された者を思い、復讐に燃え。 
ある者はたとえ主君が暴君であっても、忠義を尽くし。 
ある者は暴君をいさめたがために、王に殺される。 
ある者は仁政に主眼をおいて、国を富ませ。 
ある者は仁政を敷く王に忠義を尽くし。 
ある者は道楽にうつつを抜かし、政を忘れ国を荒廃させ。 
ある者は王様を手玉にとる。 

死ぬまでの時間つぶしをただただするだけだ。 
自分にとっての最良の方法で。 
蚊に刺されてかゆいと感じる事は、不快であり、それを掻くことが最良な方法だ。 
そしてかきむしって血が出れば、快楽はまた不快に変わる。 
将に来たらんとする事態を自らの意思で避けるのか、それとも知らずに苦しみを味わうのか。 
長い目で見たときに、かきむしることは得策ではない。 
一時の感情に身を任せるということは危険をはらんでいる。 
しかし感性はどうすることもできない。 
理性は意思に関わる。 
理性は感性を必要とする。 
理性だけでは社会は成り立てない。 

私は厭世家と思われるだろう人間だが、私は問いたい。 
明日、君は時間つぶしに飽いた人が時計を早めるのを見る。 
君は理性で押し切るのだろうか、感性に流されるのだろうか。
両方のバランスなのだろう。
人間とは、不思議なモノだ。
理性のベースに感性がある。
このことを忘れてはならない。

2016年2月14日日曜日

とある冬の平日

そう、僕はニート。
平日が休日さ。
昨日は今年80になる伯母さんの家に行って、52になるひきこもりの従兄と話してね。
世相の事を話したり、なんなり。
年寄りと話すのは楽しい。
水曜日にこれといってすることもなかったから、泊まって。
今日は昼間に西武園に一人で行ってきたってわけよ。

所沢に向かう電車は当たり前だけど空いてて、中庸読んでたんだけど、周り観たら可愛い女子なんていないから、窓の外に目がいってね。
田舎でごんすなーって都会育ちの俺は思っちゃった。
田舎っていっても、アレよ。
何もない訳じゃないのよ。
一戸建ての家があって、細い路地があって、畑があって。
高いビルなんてありやしない。
所沢の駅で乗り換えでね。
降りたら、田舎の空気を感じたよね。
駅の周りには高いビルはあるんだけど、ネオンで装飾されてるわけでもなく、若干汚くなった白いビルがチラホラあってさ。

所沢で電車乗り換えて、東村山でまた乗り換え。
西武園行きの電車はガラガラ。
50以降の小父さんがチラホラいて、制服来た小学生のガキが車内で鬼ごっこ。

西武園に着いたら、目的地を確認。
そう、競輪場よ。
平日の昼間に賭博。
やってるヤツを観にね。

駅から出ると、目の前に競輪場。
空気がおかしい。
ガラが悪いっていうか、なんていうか、殺伐としてる。
競輪場から出て駅に向かう小父さんたちは、イライラしてる感じでタバコふかしてるありさまよ。
入場料は無料。
ゲートの前には白い服きた二人のお姉さんがいらっしゃいませーって言いながら、二人で雑談よ。

中に入ったら、結構ガラガラだけど、結構人居る。
短気そうな小父さん達が、新聞とスクリーンのにらめっこしててね。
そうこうしているうちに、レースが始まりますっていうアナウンスがあって、カメラ取り出したら、警備員の小父さんがお客さん撮影禁止ですって言ってきてね。
撮影禁止なんてどこにも書いてねーじゃねーか。禁止事項は動物の持ち込みと酒飲んで暴れることとペットの持ち込みと暴力団員じゃねーかって思ったんだけど、大人しくカメラしまって、レース開始。

テキパキとレースが始まって。
気がついたら、小父さん達は見やすいポジションにみんな移動しててね。
残り一周の鐘がカーンカーンカーンカーンカーンカーンカーンって鳴ってさ。
出場者が前を通ったときに、一人の小父さんがヤジ飛ばしてね。
「がんばれよー」だってさ。

ゴールした瞬間、小父さん達移動開始。
さっさと場外出てタバコに火を付けて、駅に向かっていく人もいれば、駐車場向かったり。
あー、掛け金ゼロだwwなんて思いながら、俺も外出てさ。
写真取れないなら、いみないじゃん。
かといって、そのまま帰るのもシャクだから、外ぶらぶら歩いたのよ。

西武園には遊園地もあってさ。
観覧車とかジェットコースターとかあるんだけど、人っ子一人居ないのよ。
で、うーわ、寂れすぎでしょ。
って思ったら、今日は休園日なんだってさ。
休園日の遊園地は、なんか鉄骨が無造作に置いてある、寂しい空間でさ。
そこにいるのは、大人のような子供っていうか、子供っていうかおっさんだけだわ、って思ったらなんだか悲しくなっちゃって、そのまま多摩湖まで歩いて、でも、駅は結局競輪場の前だから、歩いて戻ってさ。

駅に戻って始発の電車に座って待ってたら、小父さんたち一杯きてね。
あ、そうか、丁度最終レース終わったのか。なんて納得してたら、軽い朝のラッシュ並の乗車率。
しかも、ほとんどおっさん。
タバコと酒臭いおっさん。
良い身なりしてるおっさんゼロ
会話聞いてると、第10レースまでは3000円あったんだけどなぁ。
だとか、アレは惜しかった。
だとか、下らない話でゲラゲラ笑ってる有様よ。
だって酔ってるんだから。
ここに可愛い女性一人いたら、痴漢とかありえるぜ。って思っちゃうくらいの、おっさんたちよ。
年取って、することないのかな。
ギャンブルが楽しいというよりか、なんていうかね。
西部すげーっていうか、ギャンブルすげーっていうか。
ニートっていうか、なんていうか。
あはれだなぁ。

2016年2月13日土曜日

愛し合い 哀たしかめる 恋試合

世の人は私を厭世家と言うだろう。
表面見て判断するなら、存分に厭世家だ。

渋谷を歩いてるギャルを見ていると、ほとんどがAV女優に見えてくるし
バレンタイン商戦を見ていると
愛し合い
哀たしかめる
恋試合
と一句出来てしまった。

小父様と若者がごった返す夜のマクドナルドでメシを食ってるとベジタリアンになった友達を思い出した。

生きるために他を殺す、というごく普通なありふれた事に辟易としてるだけなのだ。
次はお前が殺すばんだし、殺されるかもしれない。
悲しいことだ。
それを厭世家というのかな。
歯向かったら殺されるし、歯向かわなかったら餓死。
一緒になって殺すしかない。
理性的なしごく真っ当な解答ではないだろうか。
しかし、お肉はおいしい。

ベジタリアンになった左翼の彼女は一体どんなバレンタインデーを過ごすのだろうか?

リベラルとか、社会のためとかほざいてもさ、一緒じゃん。
ほほえみもとまどいも意味をなくしていく。
すべては明日のため。
それでいいのだろうか。
感情ってなんだい。
邪魔な物でしかないじゃないか。
わからないなぁ。

理性的に行動して後悔することってあるじゃん。
理性的に行動したのにもかかわらずね。

感情で人生を棒に振る人も多い。
カジノでギャンブルに本気を出している人たちを見ていて思う。
競輪場、競馬場で本気を出している人も多いことだろう。

理性的に考えて、ギャンブルをやるのは、ハイリスクハイリターンな行為だ。
ギャンブルで財をなす人は数限られている。
しかし、夢を見てギャンブルをする。
面白いことに、私の知る限り、ギャンブルにはまる男達は、なぜかナンパをしない。
ナンパより、ギャンブルのほうが好きなようだ。
ナンパのほうがリスクが低いし、リターンが大きいと思うんだよなぁ。

そんなことを、永山則夫(死刑囚)の手記を読みながら思う。

2016年2月12日金曜日

愛あらずにあらず、愛なきなり

電話がなった。
ビクビクしながら、画面を見た。
なんのことはない、メールだ。
安心しながら、メールを開いた。
送信元は携帯会社。新規サービスの広告メールだ。
うるせーな、と思いつつ、返信する必要もない事に安堵しつつトイレにむかった。

この前外に出たのはいつだったろうと、便器の上で数えた。
三日前かな、いや、今日は何日だ。と携帯を取り出し確認した。
五日前だった。
しかし、そんなことなど、なんの意味をなさない。
外の世界の事なぞ、無関係なのだ。
無関係であって欲しいのだ。

数日前にもらったメールに返信していないことを思い出した。
なんて嘘をつこう。
頭をかきながら、黄色い水を流してトイレを出た。

メールを無視する時間が長くなるにつれて、たかだか返信するという行為に必要な勇気が大きくなる。
寝てたと言うには流石に寝過ぎだ。
このままいっそ死んでしまおうか。
暗い静かな部屋のベッドの上で、外の世界と独りで戦った。
風邪を引いていた、という無難な嘘が脳裏をよぎる。
心配される事ですら重荷になる。

返信しようと心に決めて、携帯を開く。
白い画面が、暗い部屋で彼女の疲れた顔を照らした。
ここ数日ろくに食べてもいない。
家にはなにもない。
外に出なければならない。

とりあえず、シャワーを浴びよう。
そう思い、携帯を閉じた。
シャワーを浴びている最中に何か思い浮かぶかもしれない。
そう願い、風呂場に向かった。

カミソリで体の毛を剃る。
そのとき、一つの解決法を見つけた。
このまま死んでしまうと言うことだ。
無視してそり続けた。

結局なにも思い浮かばなかった。
フラフラした足取りで頭を拭きながら、願うように冷蔵庫を開けた。
なにも無い。
それが現実だ。

ベッドの上に放置した携帯が光っていた。
ビクビク、そしてワクワクしながら、携帯を開けた。
不在着信1。
別れた男だった。
やる気がなくなった。

ベッドの上に腹ばいになった。
なにやってるんだろう。こんなところで。
ため息がでた。
換気扇の音が部屋に響いていた。

腹が鳴った。
そうだった、食べ物を得るために外に出るんだった。
コンビニまで歩いて7分。
化粧もする必要もない。

ジャージを着て、財布を探した。
別れた男からもらった、ビトンの鞄の中にあるはずだ。
脱ぎ散らかした服の中から鞄を出して財布と鍵を取り出した。
財布の中を見てみると、お守りとしてお母さんからもらった5円しか入ってなかった。

ご縁がありますように・・・・か。
そう独り言をつぶやいた。
泣きそうになった。
事実、涙が一筋だけこぼれていった。

まいったなぁ。
金が無ければ腹はふくれない。
どうすることもできない。
ため息が出た。

メールを返信しようと思った。
しかし、金が無いから貸してくれ、と言うのか。
ご飯食べよう。か?
どうしよう。
彼女はまた頭をかいた。

そうこしてたら、電話が鳴った。
友達からだ。
急いで出た。
大丈夫?連絡つかないから心配したよ-。
明るい声が彼女を泣かした。

デニーズに20分後落ち合うという約束をして、彼女は家を出た。

2016年2月11日木曜日

大人の二乗

イヤフォン付けて電車で座ってると
女学生が二人乗ってきた。

会話はあいにく聞こえない。

二人とも似たような格好して、似たような髪の色にして、広告の北川ケイコみたいな化粧して。

対面に座っている、結婚式の披露宴でも参加するかのような格好をしている、黒で統一された濃いテカテカグレーの靴を履いた、30代の女性の控えた美しさが対照的だった。

そういえば、今日の国立科学博物館はキタネーオヤジとウルセーガキと綺麗なママで一杯だったなぁ。
コンピューター博物館に行こうと思ったら、日本にないんだってな。
ってことで、コンピューターコーナーがあるってネットに書いてあったから、上野の博物館に足を運んだって訳よ。
そしたらさ、今日からインカマチュピチュ展じゃない。
いやー、もう文系はねぇ。
って思いながら1400円払って中に入った。
まぁミーハーよ。

インカ帝国の興亡。
山脈に棚田を作り水路を造り民を食わせ他民族を侵略し従わせ。
侵略され滅んだ文明。
文字を持たない人々。
彼らが書いた小説でもあったら是非とも読んでみたい。
戦争を起こし、他民族を侵略した王。
スペイン人に殺された王。
釈尊はなかなか鋭い事を言ったもんだ。
諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽

いやいや、こんなものを見に来たのではない。
コンピューターの未来に対するヒントはないかと、思って来たのだ。
電子計算機は作業を効率化させた。
それにより社会はさらに加速する。
40年ほど前に国鉄に大型のコンピューターが導入され、座席予約システムが構築された。
これにより便利に、そして素早く予約が出来るようになった、という。
なるほど、って。40年前かよ。
ふむぅぅぅ。
コンピューターの未来か。

しかし、まぁ、コンピューターコーナーは狭いなぁ。
工作機械やら、人工衛星やら、江戸時代の科学資料やら、零戦やらおいてはあるが、これだけか。
国産自動車のオートモの設計図がおいてある。
見る。
意味がわからないが、親父の話とかみ合わせて落ち着いて見れば、わかるぞ。
これは後輪駆動部のデフで、これはシャフトだな。
そーすると、これがトランスミッションで、そこから一本の棒が座席の横にあるわけだ。
なるほど。
内燃機関をつんだ車の構造は進化してないんだな。
大衆化はしたけど、車の過去と過去から見る現在はさして変わってないんだな。
そこに入るのが電気自動車か。
車という用途は変わっていない。
コンピューターの用途は多岐にわたる。
コンピューターの未来か。


電車の隣が一席あいたので、そのうちの一人が座る。

あいにく会話は聞こえない。
曲が終わったタイミングで会話が耳に入った。

「でさ、ミカ何て答えたと思う?」
「なんて?」
「大人の事情だ、って。」

笑いが吹き出しそうになって、堪えた。
お前も大人だろ。おい。
子供なのか?
あ?
いや、大人ぶってたいんだろうな。
体は大人なのによ。
大人なのによ。

会話がなかなかバカらしくて面白いぞ。
頑張って聞くことにした。

「んで、彼女のパパ頭良いらしくて。青学出て不動産はじめたんだって」
「すごいねー」
「アオガクよアオガク」

またしても笑いそうになった。
アオガクで頭が良いとか言っちゃうんだから、たぶん余程のバカなんだろう。
顔は絶対にニヤニヤしている。
聞かないようにつとめた。
これこそ大人の事情である。

2016年2月10日水曜日

ペンテコステの風が吹く

朝10時ウィーン市内にあるシュテファン教会が鐘を鳴らす。
日曜礼拝の始まりだ合図だ。
市内中央に昔から存在するシュテファン教会。
そこいらの建物とは別格の歴史と雰囲気。
しかし、それに負けじと周りにある石造の家々の風格。
石造りの街の中を鐘の音が力強く駆け抜ける。
遠くからは騒音に近く、近くは鐘がねの音色と音の大きさで遠くなる。
質的研究とは、そういう、たとえるなら一人の人間だけの波長に主眼を置いて見、量的研究は鐘の騒音の周波数をデータで出すのだろう。

ガランゴロンディンガランゴロンディン
教会の塔を見上げると、青い空。
聖霊はみえない。
ドアの前には恐いワンワンと可愛いワンワンが一杯いて。
可愛いワンワンは恐い警察犬握っていた。
そして二台の外国車(BMとベンツ)。

中に入り、待っていると鐘が鳴りやみ、賛美歌とパイプオルガンの音が響き始めた。
ろうそくをもった少年少女、それに囲まれるようにしている偉い人たちがやってきた。
司祭入場である。
今日は聖霊降臨祭。
普通の日曜日と訳が違う。
イエスが復活し昇天したあとに集まり祈っていた120人の信者の上に聖霊が降り立ったという、聖書の話を記念しての礼拝である。

ドイツ語でミサが始まる。
父と子と聖霊の皆によって アーメン。の抑揚の仕方は世界共通のようだ。
突然、司祭が英語でこういった。「.we have a special guest today. ダライラマ」。
ダライラマだけだった。イスラム教の偉い人も来て、平和とは何かを議論するのではなく、最近ヨーロッパにいるダライラマがたまたま来ていたようだ。
賛美歌が次々流れ、司祭は何か言う度にアーメン。
ダライラマのお言葉を待っていると、彼は帰っていった。
教会を出た。

お土産を買って空港へ向かい、アムステルダムへ。
機上から街を見る。
ヨーロッパの広大な平野の中に無駄な箇所が無い。
林や森をあまり見かけることはなく、農地と家。
そしてたまに街。
ドナウ川が流れ、その水を生活の糧としている人々がいた。
もう彼らは何代もそういう生活をしていたのだろう。

整頓された大地の上を行く。
日本上空とは整頓の意味があいが違う。
日本人には自由の意味合いをよくよく考えて貰いたい。。
アムステルダムに着く。
ホテルに到着後近くのお店でコーヒーを飲み、窓辺の席にはペンテコステの風が吹いていた。

2016年2月9日火曜日

NYC住宅事情

アメリカ合衆国ニューヨーク州にあるニューヨークシティ。
通称NYC。
マンハッタン島にあるこの街は多くの人々を引き寄せる。
観光や仕事で訪れたことがある人も多いと思う。

タイムズスクエアやウォール街、五番街など名所は沢山ある。
日系の企業も数多くある。
広いアメリカは西海岸と東海岸、南部、中西部と分けられる。
東海岸の代表的な都市の一つがニューヨークと言えるだろう。

ニューヨーク州とニューヨークシティは、雲泥の差がある。
ニューヨークシティは都心であり、銀行家が活動するシティでもあり、そこを離れると結構な田舎だ。
このシティ、歴史的には500年くらいと短い。
しかし随分前に発展をしてしまい、以来抜本的な改革もしていないから住宅状況は決行酷い。
再開発をする暇も無い、と言った方が良いのだろうか。

建物が古いというのも、なかなか考え物だ。
古い建物は水道が通っているモノの、水道管が細いようで水圧があまり高くない。
水圧の弱いシャワーでシャンプーを流すのは一苦労する。
エアコンも窓にはめ込んで取り付けるタイプのモノになる。
小型で効率が良いようにも見える。
日本でも販売したらどうだろうか。
壁に穴を開けなくても済むという事なのだろうが、それは同時に換気扇がないということも意味する。
辛ラーメンを作ると、部屋中に凄い匂いが広がる。
トイレも換気口は、あるにはあるが、ファンが付いてない。
理論上風は通るかもしれないが、風呂上がりなど湿気対策は別に取る必要がある。

決して住めないレベルではない。
が、これで月々2000ドル以上する。
似たような物件を東京の都心で探すことは、関東大震災、東京大空襲などあり罹災した家屋が多いため、難しいと思う。
新宿に月三万の風呂無し鍵無し畳の一間という物件があるらしいが、都内で20万くらい物件は、もっと近代的な建物で絶対にマシなはずである。
都内の20万ほどの物件を借りるには、おそらく月々4000ドル位出す必要があるだおる。

NYCの安い物件でも1500ドルほどのがあるが、治安上の懸念がある。
newyork crime mapというグーグルで検索すると、犯罪の発生データが地図上で表示するサイトが出てくる。
一番悪いのは、ダウンタウンだが、悪いところは家賃が安いところだ。
安いところは、80年代90年代はもっと酷く最近は良くなってきたらしいが、東京と比べると治安が悪い。
また再開発されたビルが公営住宅だったりして、低所得者に月々5ドルで貸し出されている。
先日、NYCであった射撃事件も犯人が公営住宅に逃げ込んで自殺したという事件だった。
所得と犯罪率は関係あると言うが、気になるのは低所得者の犯罪は低所得者の住む地域で起きているという事だ。
道一本挟んで、高級住宅地という場所がある。
悪さをする奴らは、この道をまたがずに、ホームで悪さをする。

高級住宅地に住むにしろ、安いところに住むにしろ、アパートを借りるには、収入を証明する必要がある。
月々の家賃の二倍から三倍が必要となる。
そうなってくると、なんだかもうよく分からなくなる。
ある程度収入があるのに、ぼろいアパートをふっかけられて、危険と隣り合わせ。

一軒家を借りたかったら、となりのニュージャージで借りるという方法もある。
マンハッタンに住むことにこだわらないなら、これも一つの方法だろう。
東京に住まずに川崎に住むのと似ている。

2016年1月23日土曜日

自己肯定という名目で自己否定を続けた

「私はあんなヤツなんかと違うんだ」、と頑張って差別化し何とかしようとする人がいる。他己を否定することで、自己を肯定するという行為だ。
何とかしようとするが、その目的を観ると不快の解消がしたいだけなのだ。
しかし、当人は不快がコンプレックスな感情に起因しているとは気づかず、都合の良い理屈を夜な夜な練り出す。
理屈により自身を正当化し感情的に一時的にスッキリする。そして日はまた昇る。新たな不快とともに。
これの厄介な所は、一時的にスッキリする方法を知っている事だ。
だから、それ以外の方法を知ることは難しいだろう。
理屈は薬である。

言い訳とは、とある事象にさらに別の情報をつけたし(説明)する事によって相手の理解を得ようとする行為である。
理屈が薬になる良い例だ。
または、自己に対する欺瞞だ。
状況の理解を得て、さらに相手の同情を得るのが最高の言い訳になる。
「だって、何何だったんだもん。」
何何だったんだもん、と理由をつけて、障害を乗り越えて問題を解決する意志を感じられない。

最高の言い訳をしても、既に起きた事象は事象のままだ。
例を挙げてみよう。
すこし汚いが、最大のコメディだと思って読んでくれ。
半分実話だ。
ウンコを漏らしながら、レストランで飯を食う。
トイレが閉まってたと言い訳しながら。
漏らしてしまった事に関して同情も理解も得るかも知れない。
しかしながら、「席で飯を食いながら、する事を選んだ」事に関して直接的に関係はしてない。
トイレのドアの前で忍んでする事だって出来たはずだ。
それにも関わらず、周りに居る人に不快な思いをさせる事を選んで「トイレが閉まっていた」と言い訳をする。
言い訳して他人の不快な思いが消えるかっていうと、そうじゃない。
本人が誤魔化しているだけだ。

この手の人間は、煽りやすく、熱しやすく冷めやすい。
全うに注意して、話を聞いてもらえると「昨日までの俺は馬鹿だった。さらば自分。」みたいな事を言い始める。
自己を肯定するために、自己を否定する。
それも、その目的を観ると不快の解消がしたいだけなのだ。
注意を聞いてもらって、達成感があったが、その後の反応を見てがっかりした。
無限ループの突入だ。
私は以来、口をつぐんだ。

ムナシサを
ニゴシ誤魔化す
理屈かな

2016年1月22日金曜日

クレーマーの事

クレーマーってのは日々常に何かをクレームしてますね。
私の知る限り、欲求不満の人が欲求不満を解消するためにする娯楽のようなものだと思ってます。
この手の人が苦情をクレームすると、もうヤバい。
「わたし子供じゃなくてもう25才の大人なの、どうしてアナタはそう話すの?」
やってしまった。いや、やられた。
イラッと来た。私の気が触れた。
彼女の気の放散の加減は半端ない。
(この手の人間は何か変なトラブルを頻繁に起こす。たとえば、プリンターが止まったり、何故かフリーズする(ファイル未保存)等々)
完全に気を抜いていた所に、欲求不満の怒りが飛んできた。
しかし、怒りも恐怖も悲しみも慈しみも楽しみも関係ない。
私を取って食おうとする人間が目の前にいたのだ。
「私のしゃべり方と、今直面している問題の解決の方法とどう関係あるのでしょうか?YesかNoでお答え下さい。」
NOと言わせ、問題を他部署のせいにしてその場をしのいだ。
私は完全に参っていた。
後日、またきた。
brenthavenの新品の鞄を持って・・・
(brenthavenとは創業35年シアトル発祥の鞄メーカー。100ドル以上はするが、アメリカ製でデザインも良く作りも質も凄く良い。よく考えられ丁寧にデザインされているのが背負い心地から伝わってくる。2年前にブロードウェーに初出店した。)
「イイ鞄だね!あそこの店でしょ?」
こんな、些細な会話から少し気さくな会話をする。
こうして、彼女の欲求不満をお喋りで発散させると、案の定彼女はクレームを言わなくなった。
が、毎日私の所へ喋りに来るようになってしまった。
こういう時に、私は自分の行いを省みる。
そして、彼女に優しくこう伝えた。
「あなたとのお喋りは大変楽しくて時が早く過ぎてしまいます。私もアナタもすべきことがあるでしょう。ですから、今後5分くらいだけ、喋りましょう。ずーっと話してたら、お互いにとって不利益ですよ。」

翌日、彼女が隣のお客と喧嘩した。
私は苦笑をこらえるのに必死だった。

2016年1月19日火曜日

人間の考察

幼子は支配者である保護者から、保護という名目で様々な行動の制約を受け、主体性を発揮する場を奪われる。保護者という支配者に、支配され続けてきた被支配者である幼子は、保護という被支配されることが普通になり、それを求める。この手の幼子が、成長すると、依存的で独占的で攻撃的で感情的。当人の自主性の欠落から発する無責任な態度は、問題解決よりも、問題の攻撃的批難と逃避という行動をもたらす。そして常に縋る対象を求めて彷徨っている。優しい人か詐欺師が支配者として君臨するが、優しい人は攻撃性に傷つき去り、詐欺師はしたたかに食い物にする。
主体性の欠落した人は支配者の駒に最適だ。しかしながら完全に主体性がなくなるわけではない。ここがミソだ。支配者が命じたわけでもなく、腹は減り眠気がやってくる。異(例外有り)性を追いかけることは、ことさら支配者の命ではない。欲を満たす強欲モンスターである人間の主体性を完全に放棄させることはできない。
歴史を観れば、支配者と支配者の争いは自明だが、同じくして支配者と被支配者の争いがあった。しかし、支配者と被支配者の争いはコンピュータの発明と発展により、被支配者の淘汰という形で幕を閉じるだろう。
ここで奇妙な構図に勘の良い読者なら気がつくだろう。「支配者は被支配者がいてこそ、支配者になる。被支配者が淘汰されるなら、如何にして支配者が支配者なのだろうか。」
被支配者という道具の換わりに、コンピュータを用いるのだから、支配者はコンピュータの使い手だ。無論、物を用いるのには主体性は必要不可欠ゆえに、被支配者にコンピュータは使えない。過渡期の現在は、コンピュータに使われる人はいるけれども、彼らもよりもコンピュータの方が優れる時代が来ている。主体性の抑圧を常とする被支配者が、お荷物となるのは時間の問題だろう。勿論、その時まで支配者に保護されるが。
人間の主体性を抑圧しない環境にいる人々と、人間の主体性を抑圧する環境にいる人々との、支配者同士の争いは繰り広げられている。人間の主体性を抑圧する側は、負け続けている。そして、負ける度に、そのあおりを食らうのは被支配者である。
したたかな詐欺師の食い物にされる人々は、子供の頃の教育の影響ではないだろうか。それとも先天的なのか。
私にはまだわからない。