ラベル 哲学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 哲学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年2月24日水曜日

フリーゲームにハマった

フロンティアブラックスミス(FrontierBlacksmith)にはまって、12時間くらいずーっとやってた。
フリーゲームは今まで、やったことがない。

いや、語弊がある。
フリーのネトゲもやったことあるし、フリーのスマホゲームもしたことある。
ただし、フリーのWindows用ゲームは、マインスイーパやソリティア以外に、やった記憶がない。
窓の杜をよくよく目を通していたら、フリーゲームという項目があり、興味をもってやってみた。
いまさらフリーゲームかよwwwwと内心思った。
というのも、その昔フラッシュが流行った時代に、フリーゲームをやっている友達を見てた事を思い出し、なんだか懐かしい気分になったからだ。

やったことがない。
どこかの有志というかものづくりが好きな人が、作ったのだから、これは体験してみるに越したことはないと思った次第。

水滸伝2のようなインターフェイス。
言い換えれば、少し古臭い。
3Dやら、アニメーションやら、壮大なエフェクトやら、ない。
無料の作品で、そこまで力を入れていたら、ゲーム会社唖然とするだろう。
逆に言えば、商品となるゲームには、やはり、それなりのリソースがつぎ込まれているということだろう。

操作のすべてはクリックで行う。
時間の進行などは、ショートカットキーが欲しかった。
クリックし過ぎて、右手の人差し指が痛い。
そんだけ、面白い。

中毒性があった。
二回目、三回目とやってしまう。
この中毒性は、完全に狙って作られていると革新したと同時に、作者の才能の無駄遣いというか、芸術に対する態度に脱帽した。

ゲーム自体は複雑といっていいだろう。
しかし、おそらくだが、そして直感的に言うならば、一つ一つのシンプルな要素を複合させているのだろう。
HoI3やCiv5のような、超複雑なレベルではない事は確かだ。
その点を考えると、水滸伝2ほどの複雑さだとも言える。

このゲームが20年前に発売されていたとするならば、大受けだったのではないだろうか。
ちょっとまたやってくる。

2016年2月23日火曜日

東亜政治記

維新の党と民主党が合流決定らしいですね。
こうなってくると、参議院選挙どこに投票しようかなぁ、ってなりますなぁ。
この前の衆議院選挙も、結局だれにも投票したくない、という贅沢な悩みにぶち当たりましたよ。
そのとき、香港では普通選挙を守れって民主主義を守れって叫んでて、なんだかなぁ、って香港人と話した記憶がありますね。

投票に値する人間が立候補してないって、すごくシュールだなって思うんですよね。
北朝鮮の投票率は100パーセントで信任されているそうですが、日本では投票率の低下が問題となってますね。

自民党も公明党も民主党も維新の党も緑の党も幸福実現党も共産党も社民党も、公約読んだし、立候補者確認したけど、なんなんだ。って言うレベル。
投票してもらうためには大衆の賛同が必要で、大衆のウケを狙った事を掲げて演説なりしてさ。
組織票がある人たちは、なんか適当にやれば当選するって知ってるから、これといった事言ってないし、やってない。

無所属で当選したところで、やれることなんて短い質疑応答の時間でインパクトある質問するとか、天皇陛下に直訴状渡すとか、議論ではない次元での活動をせざるを得ない。
一生懸命質問したところで、ノラリクラリ。
大臣の言質取ったところで、二年後には別の大臣になってることで、そんなものに何の意味もなさない。

いつもスクープは週刊誌から始まってさ、国会議員同士でトンデモナイすっぱ抜きあいなんてしないし、なれ合いのプロレスみたいなもんで、そういうショーに大衆は飽き飽き。

アメリカの大統領選は、アメリカ人のお祭り好きという性質もあってか、大騒ぎするけど、日本と対照的過ぎる。

民主主義の最悪の形なんじゃないだろうか。
こういう時に、威勢の良いことを歯切れ良く言う人が出てくると、ウケる。
維新の始まりもそんな感じだったもんね。
アドルフ・ヒトラーも、そんな感じだったもんな。

台湾の政治活動も非常に躍起だよなぁ。
中国人の方が民主主義を理解しているのかもしれない。
それは、清朝が辛亥革命で民衆に打倒されたからか。
日本は武家の連中が錦の御旗取り出して起こした反乱であって、民衆が起こした反乱ではない。
民主主義は、民衆が命を張って得た権利というものがあってこそ、活きるのではないだろうか。

2016年2月22日月曜日

年功序列の不思議

年を取ったモノが偉くなる。
それが年功序列である。

この概念と、会社のポジションをごちゃ混ぜになると、ムチャクチャなことになる。
年を取ると、会社のポジションも上がるという仕組みだ。
人の上に立つとムチャクチャに権力を乱用する人がいたとする。
その人が、年を取って若い連中よりも偉くなると、権力を乱用しはじめる。
近所や地域という、比較的開けた組織の中ででかい顔するのは実害は少ないが、会社という閉鎖的な組織の中でデカい顔をすると、下の方はかわいそうになる。

不思議なもので、年を取ったらチームのリーダーくらいには成らないといけないらしい。
だれもがリーダーの素養があるわけではないのに、年を取ったらリーダーなのだ。
リーダー同士の格というのがあって、出世した老人、出世しなかった老人で差があるのは事実だろうが。
出世する能力がなかった老人も、出世するのが会社制度の中での年功序列だろう。
老人をいたわる事と、能力のない老人を出世させる事は同じ意味ではない。
不思議なもんだなぁ。

年功序列というと、部下が年上というのもある。
部下が年上だと、困るらしい。
扱いにくいというのだ。
うーん。
年上の部下は扱いにくい、というのも、年上には敬語を使うという風習。
そして、会社という組織では、部下は下。

上下関係という概念に囚われすぎだが、日本文化には上下関係は常につきまとっていたものだ。
ヨーロッパでも、上下関係というのは存在した。
教会がトップで、王侯貴族がそれに続く。
アメリカでも、軍隊や大学のスポーツ部やフラタニティーに上下関係は根付いている。
しかし、アメリカの上下関係は、やはりゆるい。

個々人は平等であり、組織の中にいるから上下関係があるという考えがある。
本音と建前だ。
上官の命令は絶対なんてことは、アメリカにはない。
アメリカにおいて、絶対なのは、民主主義と自由。
つまり、イデオロギーだ。
もちろん上官の命令に反して、組織に被害をもたらす部下はクビだ。
上官の責任でもあるからだ。
上官もミスったら、その上官にクビにされる。
非常にシビアな世界だ。
だからこそ、アメリカの大学はリーダーシップを重要視しているのだとおもう。
一人一人が、リーダーとしての視点で働く。
みんながリーダーで協調性があるのか。
それをなんとかするのが、イイリーダーなんでしょうね。

2016年2月21日日曜日

社会人という言葉を考えてみる

社会人。
会社人ではなく、社会人。

大学を卒業して就職すると、社会人1年目とかいう称号になる。
バイトしてようが、大学生は社会人ではないようだ。
どうやら、大学生は社会人ではないようだ。

言葉から考えるに、社会に属している人だ。
社会に属していない人なんているのだろうか?
日本人の親がいれば、日本人になってしまう法制度の日本国において、社会に属していないという状況は、とてもじゃないか思いつかない。

働いていない人は社会人なのだろうか?
どう考えても、社会人だろう。
NHKが集金に来るだろうし、年金も、住民税も、色々と社会に属したくなかろうが、社会に属している。

しかし、社会人とはそういう事を言っているのではなさそうだ。
おそらく、ふわっとした概念の言葉で、厳格な定義とか求めていない。

中学卒業して、社会人。
高校卒業して、社会人。
大学卒業して、社会人。
などの使われ方を見ると、どうやら社会で働いている人を言うのだろう。

さて、自営業で親の会社の手伝いをしている青年は社会人なのだろうか?
そうしてみると、専業主婦は社会人なのか?
隠居した老人は社会人だろうか。
彼らとて、社会人ではあるが、何せ言葉の定義が曖昧だから、よくわからない。

だったら、逆の発想をもって考えてみたらどうだ。
社会の反対。
反社会。
反社会勢力という言葉を最近よく見かける。
おそらく、その構成員は反社会人になるのだろう。
しかし、彼らも社会に属している。

どうして私がこんなに困っているかと言うと、社会人という言葉の英単語が見つからなくて、「社会人」という概念は日本文化のモノであると感じたと同時に、その概念の不明瞭な意味に戸惑っているからだ。
社会人。
社会を構成している人と、した場合、Citizen(市民)が妥当な言葉かもしれない。
だが、「大学卒業して市民になるんだ。」なんて、言う人はいない。
だって、大学生も市民だもの。

そう考えると、社会人という言葉は複数の定義を持つと考えるのが妥当なのかもしれない。
ひとつは、社会を構成し、社会に属す人のこと。
もうひとつは、労働者。

なんか、しっくりこないなぁ。
だったら、社会主義・共産主義の社会なんじゃねーの?
って考えてみましょう。
社会主義者って意味じゃないよ。
社会とはなんですか?って事よ。

社会とは、英語で言うソサエティー。
ソサエティーって、二つ意味があって、一般社会という意味もあれば、お友達会とか上流社会とかの意味がある。
ギルドのような、とある集団って意味。
そういう家族ではない集団に属している人、社会人。
って事なのか?

まー、どーでもいいや。

2016年2月20日土曜日

知っている日常

難しいこと書こうと思ったけど、めんどくさいからいいや。

という訳で、どうでも良いこと




売店である男を見た。

彼は白人だった。

彼は数あるフードの中からカップラーメンを選びレジへ。

彼は売店内でお湯を入れると

テーブルにラーメンをそーっと起き

蓋の上に彼の「武器」を置いた。

少しの間、彼はそわそわしながら待っていた。

数分後、彼は蓋を外した。

彼の眼鏡は曇った。

しかし、無視である。

彼は麺をすくい上げて

二回ほど空中で上下した後

息をかけてさました。

至って日本ではありふれた光景であるが

アクターは白人である。

わたしは日本人を見るかのように彼を見ていた。

そして、次の瞬間、違和感を感じたのだ。

普通のプロセスを書いてみよう。

「麺ふーふー

ずずずずずずずず

はふはふはふ

すんすん(鼻をすする音)」

しかしながらカルチャーの差

「麺ふーふー

・・・・

・・・・

・・・・」

も、、、物足りない

やっぱり

ラーメンはラーメンであって欲しい。

熱いスープ

熱い麺



曇る眼鏡

たれてくる鼻

そしてあの麺をすする感じ。

わかるだろうか?




見慣れた光景だが、見慣れていない。

なにかが少しだけ違う。

そんな生活をずっと続けると、なにかが少しだけ違うのが日常となる。

そして、なにも違わない日常というのに違和感を覚える。

それでも僕は生きていく。

2016年2月18日木曜日

アメリカ合衆国とアップルコンピューター

アップルが書簡を発表しましたね。
アメリカの企業なら当たり前のことですし、アメリカ人なら当然の選択だと思います。
そう思ってしまった、私は大分アメリカに感化されてしまったようで、これから日本で生活する際に色々とカウンターカルチャーショックを経験するのだと思います。

アップルは、民主主義のために、アメリカ合衆国のFBIの要求をお断りすると言いました。
これは一体どういうことなのか。
視点を変えれば非常に明快単純なんです。
私も、今後忘れないようにここに書いておこうと思います。

社会の時間に、憲法は国の最高法規と文言を習いました。
これは暗記してテストに備えるというもので、よくよく理解しておりませんでした。
刑法とか民法より上の法律だって事らしいんですが、意味が不明ですね。

憲法とは何か。
アメリカの憲法と歴史的背景を考えると、簡単にわかります。
その昔、イギリスの植民地支配が嫌な人たちが団結しました。
その時に、団体のルールを決めました。
Constitutionというものですね。
この団体というのが、アメリカ合衆国であり、ルールというのが憲法です。
イギリスでは、Constitutionというより、長い歴史の中で作られた一部の重要な法律が憲法扱いを受けるという点で、何所の国も違う法制度を持っている事を目の当たりにします。

アメリカにおいて、アメリカの団体としてのルールに従う。
アメリカ人は、このルールを尊重し、従う。
政府も、このルールに則り法律を制定し、施行する。
企業も、このルールに従う。
例え、アメリカ合衆国政府の要求を突っぱねる事になっても、このルールに従う。

アメリカ合衆国憲法前文:We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.

拙訳:我々アメリカ合衆国の人間は、より完璧な連合を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を確実にし、共同の防衛を提供し、一般福祉を増強し、そして我々と我々の子孫の自由の恩恵を確保する目的をして、ここにアメリカ合衆国ののためにこの憲法を制定し、確定する。

こんなハッキリとした前文があるものだから、明快すぎる。

FBIのアップルへの要求はiPhoneに、バックドアという誰でもアクセスできる裏口をひっそりと作ってくれというものだった。
アップルは、それは出来ないと言った。
理由は、技術的観点から言って、リスクが大きいという事。
そして、アメリカの憲法に反しているという事だった。

日本の憲法は公共の福祉に反しない限りの自由を認めていて、アメリカのそれとは異なる。
アメリカは、公共の福祉という名目で悪がはびこるという考えを持っているように私には見受けられる。
例を挙げるならば、ベトナム戦争だ。
世界の自由と民主主義のためという名目で戦争を始め、実際はそうではなかったと思った民衆は戦争に反対した。

それだけ、個人個人の権利というものを重要視している国だと言うことだ。

2016年2月17日水曜日

学者に二種あり

先日ね、私の一番弟子と久しぶりに会ったのよ。
彼とはかれこれ5年のつきあいになるね。
たったの5年だけど、今後の彼の飛躍を考えると、頼もしい気持ちで一杯だよ。
私なんかより、断然出来が良い。
名選手、名監督にあらずと言うけど、名監督、名選手にあらずでもある。
私は失敗ばかりして失敗から色々学んだけど、しなくてもいい失敗ってのもある。
それをよく聞いて、理解して、避けて進んでくれるってのは、ありがたい限りだよ。

彼もまだ23とかだから、若者らしく人生なにをしたらいいか分からない、まだそんな年頃で。
色々と経験をしているけど、芯となるモノが欠けている感じ。
本人もそれを分かっていて焦っているんだけど、焦る必要も無いけどなぁ、と横目で見ながら思っていた。
若気の至りってそんなもんだ。

日米のベンチャー企業の違いを彼から聞いた。
また、私自身、思ったことを綴っていこうと思う。
この記事は思索の途中の雑記になる。
読者諸君も同じく思索して欲しい。

アメリカ政府主導でベンチャー企業を推進するプログラムがある。
SBAと呼ばれる部署で、各省庁から金を引っぱってきては、ベンチャーに投資をしている。
この投資先というのが、主に大学出の博士号を持っている人たち。
工学系は勿論のこと、社会学、心理学、教育学など様々な分野にわたり、その分野の特許などを保持している人たちが中心となって、事業を興す。

日本も、アメリカほど活発ではないが、似たようなシステムがある。
学者風情が商いに手を出して、成功するはずがないという風潮があるような気もする。
たしかに、アメリカのトロフィースクールと呼ばれるトップ大学のビジネススクールの生徒は生き馬の目を抜く様な眼をしていて、いかにも、という雰囲気を出していた。
そんな世界に、好奇心旺盛の眼をした学者が入っていったら、眼を抜かれてしまうのも、わからないでもない。

ベンチャーというと、フェイスブックを思い浮かべる人が今のご時世多いだろう。
ウェブサービスを提供する会社だ。
昨今のITベンチャーブームは、特許保持者が始めるより、アイディア
保持者が具現化している所がある。
特許もアイディアなんだが、日本の場合社会科学での博士に金を出している連中はアメリカと比べて少ない。

また、工学系の博士は、そのまま日本のメーカーへと流れていく。
ここが、アメリカと日本の大きな違いではないだろうか。
現在のソフトウェア全盛の時代の少し前、ハードウェアの時代を振り返ってみる。
そうすると、アメリカのフェアチャイルドやらインテルやらのシリコンバレーのスタートアップをしていた時代に、日本ではメーカーが社内の研究所で開発を進めていた。

アメリカで研究開発をしていたのは博士号所持者だったが、日本のメーカーで研究開発をしていたのは博士号所持者ではない。
ここが、一つの大きなミソだ。

批判的思考とは何か、という拙著の記事を思い出してもらいたい。
日本の大学では全く問題にされていない課題であり、さらに日本の大学出の人たちが就職するために受ける試験でも、問題にされてはいない。
彼らが課題として課されるのは、決められた事を与えられた時間内で素早く正確に答えることであり、答えのない問題を考え続けることではない。

答えのない問題を考え続けること。
実はこれ、アメリカでは、大学で教えられるんです。
そして、アメリカでは、答えのない問題を考え続けることは、一部の学者のような知的な人たちだけがやってるんです。
何故なら、彼ら学者は、そう訓練されたからです。
それ以外の人たちは、そんな事しないのです。

研究開発に答えはありませんから、答えを見つけ出さないといけません。
そんなの、実は、みんな出来るはずなんですよ。
実際にやってきたのが、日本ではないでしょうか。
だから、博士なんか取って学者なんかにならなくても、研究開発の仕事が出来るようになる。
そして、批判的思考なんかも、導入する必要がなかった。

日本では、学者とは、ただの物知りです。
彼らが独自の論点を主張するのをあまり見たことがありません。
主任やら先輩やら恩師やら孔子やらが言ったことを暗記して、必要に応じて思い出す人たちです。
クイズ番組に出てくるインテリさんたちもそうでしょう。

いや、もちろん、立派な学者さんも日本にはいますよ。
理化学研究所とかに。
だけど、私は、日本にいる物知りなだけの学者というのが、アメリカにいるのか、と思ったんですよ。
アメリカという国の教育を見る限り、物知りを作る事に重点を置いていない。
また、日本という国の教育を見る限り、独自の論点や主張という事に重点を置いていない。

独自の論点や主張がなく、過去の繰り返しでは、イノベーションは出てこない。
温故知新とは、新しい気づきだが、その新しい気づきの芽を伸ばしてこそのイノベーションだ。
答えのない問題を考えるにあたって、知識量が多い方が良いとは思うが、ただの物知りになっては駄目なのだろう。

2016年2月15日月曜日

人類学アレコレ

人類学の大前提は人に変わりなしという、平等主義にもとれる発想だ。 
私と彼は違う。 
一緒にするなと個性を追い求めてる人は言うかもしれないが、やはり大して変わらない。 

先日、田園調布に自転車で行ってきた。 
東京の高級住宅街に古墳があるというからおもしろいものだ。 
古墳の横には小さな博物館があるという、是非とも見に行きたいと思い、自転車で多摩川の土手を走りカメラを持って行った。 
自転車のチェーンの鍵を忘れるという失態を犯したものの、博物館の玄関の前に自転車を置き、受付の人に頼んで、監視してもらった。 

小さな博物館だった。 
博物館の中には、関東圏の古墳から発掘された物を展示してあった。 
武器に装身具、当時の生活形態、そして埴輪。(土偶じゃないよ) 

多摩川の下流域にあたる、このあたりは、多摩川の潤沢な水資源と、肥沃な大地があり、5世紀頃には上野毛国という大きな集落があったと、日本書紀には記されている。 
関東圏には他にも国があり、勢力抗争は絶たなかった、という。 
傲慢な王に反対する勢力が大和朝廷に泣きつき、連合軍として王を追い出し、関東圏は大和朝廷の支配下に入ったと日本書紀には記されているそうな。 

史記には様々な人間が登場してくる。 
その多くは王国の王様であったり、その親類であったり、武官文官であったりする。 
ある者は王と親類を殺し、自らが王であると名乗り。 
ある者は殺された者を思い、復讐に燃え。 
ある者はたとえ主君が暴君であっても、忠義を尽くし。 
ある者は暴君をいさめたがために、王に殺される。 
ある者は仁政に主眼をおいて、国を富ませ。 
ある者は仁政を敷く王に忠義を尽くし。 
ある者は道楽にうつつを抜かし、政を忘れ国を荒廃させ。 
ある者は王様を手玉にとる。 

死ぬまでの時間つぶしをただただするだけだ。 
自分にとっての最良の方法で。 
蚊に刺されてかゆいと感じる事は、不快であり、それを掻くことが最良な方法だ。 
そしてかきむしって血が出れば、快楽はまた不快に変わる。 
将に来たらんとする事態を自らの意思で避けるのか、それとも知らずに苦しみを味わうのか。 
長い目で見たときに、かきむしることは得策ではない。 
一時の感情に身を任せるということは危険をはらんでいる。 
しかし感性はどうすることもできない。 
理性は意思に関わる。 
理性は感性を必要とする。 
理性だけでは社会は成り立てない。 

私は厭世家と思われるだろう人間だが、私は問いたい。 
明日、君は時間つぶしに飽いた人が時計を早めるのを見る。 
君は理性で押し切るのだろうか、感性に流されるのだろうか。
両方のバランスなのだろう。
人間とは、不思議なモノだ。
理性のベースに感性がある。
このことを忘れてはならない。

2016年2月13日土曜日

愛し合い 哀たしかめる 恋試合

世の人は私を厭世家と言うだろう。
表面見て判断するなら、存分に厭世家だ。

渋谷を歩いてるギャルを見ていると、ほとんどがAV女優に見えてくるし
バレンタイン商戦を見ていると
愛し合い
哀たしかめる
恋試合
と一句出来てしまった。

小父様と若者がごった返す夜のマクドナルドでメシを食ってるとベジタリアンになった友達を思い出した。

生きるために他を殺す、というごく普通なありふれた事に辟易としてるだけなのだ。
次はお前が殺すばんだし、殺されるかもしれない。
悲しいことだ。
それを厭世家というのかな。
歯向かったら殺されるし、歯向かわなかったら餓死。
一緒になって殺すしかない。
理性的なしごく真っ当な解答ではないだろうか。
しかし、お肉はおいしい。

ベジタリアンになった左翼の彼女は一体どんなバレンタインデーを過ごすのだろうか?

リベラルとか、社会のためとかほざいてもさ、一緒じゃん。
ほほえみもとまどいも意味をなくしていく。
すべては明日のため。
それでいいのだろうか。
感情ってなんだい。
邪魔な物でしかないじゃないか。
わからないなぁ。

理性的に行動して後悔することってあるじゃん。
理性的に行動したのにもかかわらずね。

感情で人生を棒に振る人も多い。
カジノでギャンブルに本気を出している人たちを見ていて思う。
競輪場、競馬場で本気を出している人も多いことだろう。

理性的に考えて、ギャンブルをやるのは、ハイリスクハイリターンな行為だ。
ギャンブルで財をなす人は数限られている。
しかし、夢を見てギャンブルをする。
面白いことに、私の知る限り、ギャンブルにはまる男達は、なぜかナンパをしない。
ナンパより、ギャンブルのほうが好きなようだ。
ナンパのほうがリスクが低いし、リターンが大きいと思うんだよなぁ。

そんなことを、永山則夫(死刑囚)の手記を読みながら思う。

2016年2月12日金曜日

愛あらずにあらず、愛なきなり

電話がなった。
ビクビクしながら、画面を見た。
なんのことはない、メールだ。
安心しながら、メールを開いた。
送信元は携帯会社。新規サービスの広告メールだ。
うるせーな、と思いつつ、返信する必要もない事に安堵しつつトイレにむかった。

この前外に出たのはいつだったろうと、便器の上で数えた。
三日前かな、いや、今日は何日だ。と携帯を取り出し確認した。
五日前だった。
しかし、そんなことなど、なんの意味をなさない。
外の世界の事なぞ、無関係なのだ。
無関係であって欲しいのだ。

数日前にもらったメールに返信していないことを思い出した。
なんて嘘をつこう。
頭をかきながら、黄色い水を流してトイレを出た。

メールを無視する時間が長くなるにつれて、たかだか返信するという行為に必要な勇気が大きくなる。
寝てたと言うには流石に寝過ぎだ。
このままいっそ死んでしまおうか。
暗い静かな部屋のベッドの上で、外の世界と独りで戦った。
風邪を引いていた、という無難な嘘が脳裏をよぎる。
心配される事ですら重荷になる。

返信しようと心に決めて、携帯を開く。
白い画面が、暗い部屋で彼女の疲れた顔を照らした。
ここ数日ろくに食べてもいない。
家にはなにもない。
外に出なければならない。

とりあえず、シャワーを浴びよう。
そう思い、携帯を閉じた。
シャワーを浴びている最中に何か思い浮かぶかもしれない。
そう願い、風呂場に向かった。

カミソリで体の毛を剃る。
そのとき、一つの解決法を見つけた。
このまま死んでしまうと言うことだ。
無視してそり続けた。

結局なにも思い浮かばなかった。
フラフラした足取りで頭を拭きながら、願うように冷蔵庫を開けた。
なにも無い。
それが現実だ。

ベッドの上に放置した携帯が光っていた。
ビクビク、そしてワクワクしながら、携帯を開けた。
不在着信1。
別れた男だった。
やる気がなくなった。

ベッドの上に腹ばいになった。
なにやってるんだろう。こんなところで。
ため息がでた。
換気扇の音が部屋に響いていた。

腹が鳴った。
そうだった、食べ物を得るために外に出るんだった。
コンビニまで歩いて7分。
化粧もする必要もない。

ジャージを着て、財布を探した。
別れた男からもらった、ビトンの鞄の中にあるはずだ。
脱ぎ散らかした服の中から鞄を出して財布と鍵を取り出した。
財布の中を見てみると、お守りとしてお母さんからもらった5円しか入ってなかった。

ご縁がありますように・・・・か。
そう独り言をつぶやいた。
泣きそうになった。
事実、涙が一筋だけこぼれていった。

まいったなぁ。
金が無ければ腹はふくれない。
どうすることもできない。
ため息が出た。

メールを返信しようと思った。
しかし、金が無いから貸してくれ、と言うのか。
ご飯食べよう。か?
どうしよう。
彼女はまた頭をかいた。

そうこしてたら、電話が鳴った。
友達からだ。
急いで出た。
大丈夫?連絡つかないから心配したよ-。
明るい声が彼女を泣かした。

デニーズに20分後落ち合うという約束をして、彼女は家を出た。

2016年2月11日木曜日

大人の二乗

イヤフォン付けて電車で座ってると
女学生が二人乗ってきた。

会話はあいにく聞こえない。

二人とも似たような格好して、似たような髪の色にして、広告の北川ケイコみたいな化粧して。

対面に座っている、結婚式の披露宴でも参加するかのような格好をしている、黒で統一された濃いテカテカグレーの靴を履いた、30代の女性の控えた美しさが対照的だった。

そういえば、今日の国立科学博物館はキタネーオヤジとウルセーガキと綺麗なママで一杯だったなぁ。
コンピューター博物館に行こうと思ったら、日本にないんだってな。
ってことで、コンピューターコーナーがあるってネットに書いてあったから、上野の博物館に足を運んだって訳よ。
そしたらさ、今日からインカマチュピチュ展じゃない。
いやー、もう文系はねぇ。
って思いながら1400円払って中に入った。
まぁミーハーよ。

インカ帝国の興亡。
山脈に棚田を作り水路を造り民を食わせ他民族を侵略し従わせ。
侵略され滅んだ文明。
文字を持たない人々。
彼らが書いた小説でもあったら是非とも読んでみたい。
戦争を起こし、他民族を侵略した王。
スペイン人に殺された王。
釈尊はなかなか鋭い事を言ったもんだ。
諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽

いやいや、こんなものを見に来たのではない。
コンピューターの未来に対するヒントはないかと、思って来たのだ。
電子計算機は作業を効率化させた。
それにより社会はさらに加速する。
40年ほど前に国鉄に大型のコンピューターが導入され、座席予約システムが構築された。
これにより便利に、そして素早く予約が出来るようになった、という。
なるほど、って。40年前かよ。
ふむぅぅぅ。
コンピューターの未来か。

しかし、まぁ、コンピューターコーナーは狭いなぁ。
工作機械やら、人工衛星やら、江戸時代の科学資料やら、零戦やらおいてはあるが、これだけか。
国産自動車のオートモの設計図がおいてある。
見る。
意味がわからないが、親父の話とかみ合わせて落ち着いて見れば、わかるぞ。
これは後輪駆動部のデフで、これはシャフトだな。
そーすると、これがトランスミッションで、そこから一本の棒が座席の横にあるわけだ。
なるほど。
内燃機関をつんだ車の構造は進化してないんだな。
大衆化はしたけど、車の過去と過去から見る現在はさして変わってないんだな。
そこに入るのが電気自動車か。
車という用途は変わっていない。
コンピューターの用途は多岐にわたる。
コンピューターの未来か。


電車の隣が一席あいたので、そのうちの一人が座る。

あいにく会話は聞こえない。
曲が終わったタイミングで会話が耳に入った。

「でさ、ミカ何て答えたと思う?」
「なんて?」
「大人の事情だ、って。」

笑いが吹き出しそうになって、堪えた。
お前も大人だろ。おい。
子供なのか?
あ?
いや、大人ぶってたいんだろうな。
体は大人なのによ。
大人なのによ。

会話がなかなかバカらしくて面白いぞ。
頑張って聞くことにした。

「んで、彼女のパパ頭良いらしくて。青学出て不動産はじめたんだって」
「すごいねー」
「アオガクよアオガク」

またしても笑いそうになった。
アオガクで頭が良いとか言っちゃうんだから、たぶん余程のバカなんだろう。
顔は絶対にニヤニヤしている。
聞かないようにつとめた。
これこそ大人の事情である。

2016年2月6日土曜日

眠くなる波長

はっきり申し上げましょう。
私にとって、プログラミングは趣味であり食い扶持です。
私が一番にやっていることは、人間の研究であると思っています。

人間というのは面白い。というのは、デスノートの死に神さんの言葉でもありますが、私も人間は面白いと思います。
世界の法則に反した人間界のルールというのがあったり、人間界のルールに反した世界の法則があったりと、なにかと人間で居る限り、人間の苦労は多いかと思う所存です。

人間の携帯の一つである乳幼児、通称赤ちゃん。
かわいいですねぇ。私自身が幼いときは、うるさい喧しい存在と思っていましたが、赤ちゃんってのはうるさい喧しい存在だと認識すると、それ自体がかわいらしく思えてきますね。

赤ちゃんも同じ人間ですから、その扱いは礼に適っているべきだと私は思っています。
「ガンを飛ばした」などと言って、かかと落としやら何やら、暴行を加えて三歳の男の子が殺された事件が最近ありましたが、加害者の心の闇の深さに鳥肌が立ちましたね。
家庭内暴力と妊娠中絶は相関関係があるそうで、破壊的な何かが影響しているのではないかと睨んでおります。

私はそれを気と考えていて、波長も気の一種だし、心も気の一種だし、太陽も気の一種だし、人間も気の一種だと。
とある人間Aという気に、Xという気が絡み合い共感すると、何かが起きる。
そういう風に、人間を研究というか、人間を観て生活しています。
なので、心理学、社会学、人類学、宗教学、地理学、地学、化学、生物学、物理学等々、よろずの学問の論文や本を読み勉強している次第です。

先日、誰の本だったかなぁ。
苫米地英人博士の本だったと思いますが、本の題名は失念しました。
人間が眠くなる波長というか、眠くなる振動の話を本で読みました。
1/fゆらぎ、という周波数があるそうです。
パワーが周波数fに反比例するから、こういう呼び名だそうです。
私にはどういう仕組みか分かりませんが。
1980年にミズーリ大学の物理学者ピーターハンデル博士によって提唱され、1987年に異論を唱える論文が出て、いまも物議を醸している理論です。

1/fゆらぎは、ピンクノイズとも呼ばれています。
博士によると、宇宙の至る物象に1/fを観測できるとのこと。
つまり、この事から考えると、総てのモノに含まれているが故に、波長が合うということになります。
共感、ハーモナイズ、するには非常に持って来いな波長だと言う話になります。

このピンクノイズを用いて、おそらくですが、やる気を出す事も可能かと思います。
同時に、リラックスも可能だと思います。
気次第だと思います。

赤ちゃんが、なかなか寝付かない。
そういう時は、この1/fゆらぎを用いてみたらどうでしょう。
という事でやってみた。
ぐずってたのに、10分もしたら完全に寝付いちゃう。
なんだ、これ。
と驚いています。

今日試したので、なんとも言えませんがね。
もう少しやってみるつもりです。
一つ言えることは、私自身が作りだした振動が1/fゆらぎかどうかを測定できないということです。
ただ、なんとなく、自分自身のゆっくりとしたリズムを体現しただけなんですが、そんなんで寝付いたので、びっくりしてます。


不眠症の大人は、どうすればいいでしょうね。
誰かに抱っこしてもらって、揺さぶってもらえばいいんでしょうか笑



2016年2月5日金曜日

時間の概念

時間。
認識させられる訓練を受けたら、もうそこから抜け出せない。
人類の偉大な発見は火より時間の概念ではないだろうか。
火は見えるが、時間は見えない。
考える事によって、概念が出来、その概念の上に様々な概念が被さる。
他の動物はこれが出来ているのだろうか。

火は見え、あつい。
いやでも認識する。
認識しなかったら火事だ。

しかし、時間はどうだろう。
たしかに時は流れる。
子供は大きくなっていくし、水は上から下へ落ちる、元素は崩壊する。
しかし、それは変化を捉えただけの事では無いか。
時間という概念が発見され、色々な概念があり、そこに空想が生まれる。
時間が止まったら、水も上から下へと落ちないし、子供も大人にならないし、元素は崩壊しないと。

日が昇り、月が昇る。
そういう物であると、思っていたならば、時間の存在には気がつかない。
とあるサイクルがあるな、と情報を記憶を覚えてきた者は気づくだろう。
毎夜毎夜、空の星空の模様がかわり、景色も変わり、天候にも傾向があると気づく。
気づいた者だけの世界であった。
はたして、どういうことであろうと、気になった狩りに出る必要のなくなった、働かない無産階級の連中は、それがどういったサイクルで行われているかを考え始めたのでは無いだろうか。

月の満ち欠けを、何回日が昇ったかを数えたのでは無いだろうか。
そして、その変化から、万物が変化していく様を感じ取ったのだろう。
つまり、時間とは変化を感じる事では無かったのだろうか。

それが積もり積もって、この近代社会。
我々は最初に時間の概念を覚え込まされる。時計を渡されて。

昨日にもどったみたーい。
昨日って何だ?と聞いたら、昨日は昨日でしょ。そんなこともしらないの?
と言われてしまいそうだ。
世界が決めたカレンダーにただ従っているだけ。
昨日に戻ったみたいという言葉は、つまり、なんら変化していない。
と、ごくわずかな変化に気づかない連中が言う言葉だ。
化粧も違うし、体調も違う、生理がきたかもしれない。

変化を表示するのに時計(数量)は使われていると、言っても過言では無いだろう。
変化を認識しなければ、時間の概念は存在しない。
なのだが、近代においては、時間は時間として、そのまま覚え込まされる。
その社会のルールにずーっと従い、間違いを犯さなければよい。
変化に気づかないのに時間に追われる。
一年という枠組みが終わったら二年生。三年生。四年生。

ドロップアウトと時間。
社会のルールに従えないものをドロップアウトとする。
果たして、一体どこまでなルールなのかは、そのドロップアウトの周りの環境による。
自販機から二個出てきてラッキーと言うだろう。
しかしそれは盗みと認識すれば盗みで親に怒られる。
とある行動の善し悪しを自分とつながりのある社会から判断される。

社会がイヤで、他人が大嫌いで関わりを持ちたくないと願う人間がいるならば、そいつはすべからく社会のルールを無視しまくるだろう。
切れちゃったドロップアウトだ。
明日なんて来て欲しくない。社会を拒絶。変化を目にしないため娯楽漬けか瞑想の世界へと入り込むだろう。

そうではないドロップアウトはどうだろう。
そうした場合、そいつの属する社会を見ないと何とも言えない。
定義によって変わるのでは無いだろうか。

2016年2月3日水曜日

温もりを求めて集う夜の蟲

寒いわね。
いやー、季節の変わり目の頃ですね。
もう、この間夏の始まりかなーって思ったら、もうお終いですね。
皆様いかがおすごしでしょうか。

季節の変わり目と言っても、昼間は暑いですね。
パーカー着るには暑いけど、Tシャツ一枚じゃ屋内は寒いって事多いですよね。
だから、黄色いシャツ着て散歩しとったとですよ。
そしたらねー、乳母車に乗った1歳くらいの金髪白人の子がこっちを指さしながら、「アイヤー」って言って。
耳を疑いました。
あんなに純粋そうな子でさえ色で差別をするんだなー、なんて思って悲しくなって。
それだけなら、まだ良いですよ。
その後パイクプレイスでジャム買ったんですよ。
お店の金髪白人のお姉さんが、別れ際に「バイバイ、黄色い人」って。
いや、まいった。
オウム返しで「バイバイ、白い人」って言おうと思ったけど、やめた。
ニコニコしよう。ニコニコ。

その日の夜。
まぁ、夜は明けかけてたんだけど。
寝る前に歯磨いて、口をゆすいでたら「ブーーーーーーーーーーーン」って羽音がして。
元気な蝿だなぁって見たら、黄色いヤツ。
小バエ、蚊、蝿の次にやってきたラスボス。
ムシして寝れば良い。日昇ってるんよ。
なんなら洗面所に閉じ込めてしまえば良い。
そう思って洗面所出てドア締めて。
しかし、それは責任ある行動だろうかと自問自答。
ルームメイトが起きてシャワーを浴びるときに、「アッー!」なんてあったらね。
我々、人間が群生していてそれの理由はこの自然界の中で死ぬまで生きるため。
つまり、アッー!なったら面倒だな。
しかも、使い捨て型黄色いヤツじゃないのよ。
危ないヤツよ。
責任ってのは行動について回る反応の一種で、取るも取らないも無いからね。
ごめんね。
生存競争なんだ。
共生は出来ない。

ドアを少し開ける。
洗面所入る。
びびった。
いないの。
どうする?寝る?
いや、やる。
密室と神経ガス。
なんだ、そういうことか。
5秒ほど噴射。
中に入って確認したいけど、それじゃ俺も虫と同じ運命をたどるかもしれない。
私はベッドに入った。

2016年2月2日火曜日

ぼくらの祖国を読んで

ぼくらの祖国という青山繁晴氏が書いた本が私の本棚から発掘された。
発掘したのは私ではない。家に遊びに来た友達だ。
本棚という海から積み書を救出なさるその姿、まるで海猿のようで。
「ぼくそこはいい。」とおっしゃっていました。
士の言う事に間違いはあるまい、と興味深く拝読したところ、これまたスラスラ読める。難しい事を平易に書いていて非常に面白かった。

青山氏の言わんとすることはまったくその通りであり、胸の中のわだかまりが溶けていく、その彼の言葉の作用を楽しませていただいた。
しかし、唯一、祖国という言葉だけがむなしく響いている。

ぼくらの祖国。
祖国とは祖の国。
僕の祖国か。

移民の僕からすると国境という概念が古い。
僕は祖国という言葉よりも、文化共同体という言葉をあえて使いたい。
祖国という言葉を使った方がイメージしやすいからだ。
アメリカを見ると、やけに集団づくりに合理的で、世界中の人間に適応可能なのだ。
グローバリズムとはつまりは、世界のアメリカ化。
世界のみんなは、移民になる。
皆が祖国を失う。しかし、彼らは彼らの所属する文化共同体に寄って生きていく。

街はなれ
ながれついた
みなとまち

この街の人々の祖国は別にある。
しかし、彼らはアメリカを愛する。
彼らは彼らの所属する自立した永続し得る共同体を愛する。
それは、アメリカ合衆国であったり、母国であったり、家族であったり、宗教であったり、信条であったりする。

人類皆兄弟。
守るべきルールだけ守って、楽しく死にましょう。
そういう考えが非常に合理的で私は好きだ。
感情を発散させて、幸福を感じる事も法律に触れない範囲では、何をしてもよい。
自由の国アメリカ。

ゴミくずが
ながれついた
みなとまち

アメリカは無駄が多い。
2ドルでピザのスライスを買う。チーズが置いてある。
もちろん、振りかけるわけだが、命中せずにパラパラとこぼれる。
こぼれたチーズは塵として世に出て行った。
そのチーズは陸路を大型トラックで運ばれたうえで、塵に対してエネルギーを大量に使ったに等しい。
まぁ、そういう意味で、人間も、これといった事をしない限りは、同じ事である。

日本人の特徴としてあるのは、青山氏も言うように大和魂だ。
武士道とは死ぬことと見つけたり。
さばかりのことに死ぬるや、さばかりの事に生くるや、よせよせ問答。
集団の為に生きるというのが和人のようだ。
いや、集団の調和に努めるのが流行っているのだろう。

好きなところに住む。
そのためには、スキルが必要である。
田舎に住んでも生活していけるスキルである。仕事がないかもしれないが、自分で仕事を作れるならば、それを糧にして生きていけるであろう。
サラリーマンが都会に住む理由は、会社が都会にあるからだ。仕事によって、住むところを縛られるのだ。
次なる移民の時代、日本のような雇用形態―終身雇用―とアメリカのような雇用形態―契約雇用―とでコンフリクトがおきるだろう。
終身雇用、つまり、永遠に、神奈川に住まねばならない。場合によっては転勤だ。
契約雇用、つまり、好きな所に住める。

終身雇用の制度の中では、会社に所属することが給料をもらえる理由なのだ。
契約は、契約に沿って仕事をし、報酬を得る。
だからこそ、アメリカの大学の学部は重要であり、証書も重要なのだ。
職歴・学歴・あなたはどんなファンクションなの?
問題にされることは一緒なのだが、細かい点で差異が少しある。

未来予想。
日本でソフトバンクがサイバー大学というITを中心とした通信制大学を設立した。
ダイエーも大学を作ったことを考えると、時代の寵児は教育に手を出すようだ。
孫正義はインターネットの時代の到来を確実に実現しようとしている。
軍隊で運用されいたマネージメントのシステムを普及させるとともに、新しい価値である情報の運用システムも必要とされた。
クラウドシステムはつまり、世界のいかなる場所、国境に制限されずにインターネットへと接続が出来る環境であれば、ひとつの同じインターネットという空間を通して、ひとつにつながることunifyが出来る。
それはつまり、チベットの塩をネットでアメリカから買う事ができ、UPSですぐに届くような時代の到来の前兆であろう。
つまり、ネットでUnifyしたといえども、現実空間は存在する。
その移動を物流が支え、物流をささえてるのは技術とエネルギーだ。

そして人々は死ぬまで楽しく過ごすのである。

国境の無い時代が来るのに祖国を唱えるのは古いが、和人の精神の点については同意する。

2016年1月30日土曜日

忠とは何だろうか? 02

唯々諾々とするのが忠なのだろうか。
認識とは主観的であるがゆえに、一層考える必要がある。

歯に衣着せぬ人もある。
私はそういう人を忠の人と思っているが、まわりの評価は低い。
虚礼を好む者がいるという事に若い頃は驚いたが、最近では虚礼を好まない者が圧倒的に少ないという事に驚いている。
半分半分だと思っていたが、そうではない。
虚礼を好む者が大多数という事実に、苦笑しているのである。

虚礼に我々人間どれほどの労力を費やしていることか、考えてみると唖然とする。
虚礼を廃したら、どれほどの時間と労力が節約できるのか。
「お世話になってます。」
「お疲れ様です。」
お辞儀。
例を挙げたらキリが無い。

相手に良い気持ちをさせようと、礼を尽くす。
たしかに、それも大切な仕事だ。
これを考えてみれば、虚礼を尽くされて舞い上がらせている、という事だ。
なんということだろうか!
私はそういう人間に会社の重要ポストに就いて欲しくない。

また、失礼だと考えられたくないから、礼を尽くす。
バカにされないために虚勢を張るということだ。
失礼の極みであると同時に、他人を失礼と言う輩も失礼だ。
なんということだろうか!
私は蝸牛角上の争いに巻き込まれたということだろうか。

こう考えてみると、人間というものは、なんとも面白い。
人間は考える葦どころの話ではない。
我々人間は考えるが、考えのベースに感情がある。
感情をベースに考える人間は、感情を揺さぶるだけで考えが揺れる。
このことを、よく理解した人が世に憚っているのを見かける。

一部の人は、マイノリティーになるが、感情をベースに考えることを知っているが故に、感情をベースに考えることを極力避けようとする。
こういう人に対して、虚礼を尽くすと、変な感じになる。
彼らは、嘘よりも真実という劇薬を好む。
得がたき忠義の士と福澤諭吉の学問のすゝめにはあるが、斯様な人の事を言うのだろう。

勝負の世界に於いて、感情に流される輩は危うい。
この宇宙は勝負の世界ではないが、この宇宙は勝負の世界を包摂している。
そして、勝負の世界には、感情に流される人と流されない人とが居る。
人々は組織を作り、日々争っている。

まるで、司馬懿のように。
まるで、諸葛亮のように。
人間とは何かを知る人が、道とは何かを知る人が、確かに居る。

2016年1月29日金曜日

忠とは何だろうか? 01

鹿児島の鹿屋基地へ行って参りました。
零戦見ました。
軽々と、ヒョイっと上がって、おおおおおってなりましたね。
エンジン音が随分モダンだなぁと思ってたら、やはりエンジンは載せ替えたモノらしいですね。
アメリカの航空ショーで、カーチスP40の五機編隊を見たことがあります。
アメリカのモノはやはり、アメリカ。日本のモノはやはり日本。
作った人の人柄というものが出ている気がします。

海上自衛隊航空隊鹿屋基地にある史料館、知覧平和会館も見学したところ、忠とは何かと考えました。
史料館と平和会館の論調の違いを感じたからです。
特別攻撃隊員の志は類を見ないものだと思います。
まさに忠義の士と言えます。

平和会館に韓国人の団体観光客が来ていました。
彼らは一体どういう風に見ていたのか、気になりました。
立場が違えばモノのとらえ方も変わりますからね。

山本五十六は、開戦に反対していましたが、開戦が決定されると、果敢に決行しました。
大西瀧次郎は、戦況が悪くなり特別攻撃を推進し、戦後割腹自決をしました。
それを思うと、忠とは何だろうと考えざるを得なくなりました。

当時の日本に忠臣は居たのかと思いました。
当時の日本で戦争を本当に反対した人は居たのだろうか、と言うことです。
諫めやすい事を諫めることは簡単です。
しかし、諫めにくい事を諫める事は難しい。
本佐録にはこうあります。「諫めがたきを諫むるを忠臣」と言うと。

開戦が決定された時、自らの腹を切って戦争を反対した軍人は居たのでしょうか?
開戦を推進しようと、血気盛んにクーデターまでやった若い将校が居たことは226事件などを見れば、想像が付きます。
もちろん、彼らも国の事を考えたうえでの行動だと思います。
同様に、国のことを考えて、開戦を反対した忠義の士は居たのか、という疑問です。

漢籍の一つ、史記に屈原という男の話があります。
春秋戦国時代の政治家です。
彼は、自分の国の楚の王様が他国の秦の謀略に踊らされて戦争をしようとしているのを、必死に止めようとしました。
しかし、王様は屈原の諫めを聞かずに、屈原は左遷。
楚は秦にボコボコにされ、屈原は自害しました。

彼の作った漢詩は、武士の必読書の四書五経の一つである詩経に載っています。
離騒という題です。
是非一度読んでみて下さい。

そして忠とは何かを考えてみて下さい。
死をも厭わない人間を死なせる事になる。
これが国益なのでしょうか。

2016年1月26日火曜日

批判的思考 03

事物を一つ一つ多角的に捉えて考える。
批判的思考は新しい考え方をもたらす。
しかし、それは同時に、破壊をもたらす、と私は考える。
批判的思考は必ずしも良いとは言えない、のではないだろうか。

何故なら、批判的思考は既存の概念を破壊するからだ。
これは、アメリカという国を鑑みると顕著だと私は思う。
第二次大戦後の好景気に沸くアメリカ。
大学への進学率は未だに高いとは言えないが、大学に行く若者の数は増えた。
アメリカは自由と民主主義のために戦う、という理念の元、反共的な政策を続け戦争を続けた。
ヒッピー文化の中心地であるスタンフォード大学では、多くの若者がベトナム戦争を反対した。
彼らは、ベトナム戦争が正しくないと信じた。
政府の言うことに反抗した。
最初は白眼視された抗議運動も、全米に広がり、メディアの影響もあり、ついにアメリカはベトナムから手を引いた。

既存の概念が破壊されるとき、新しい概念が生まれる。
私はそれを、発明だと思っている。

考えてみれば、多くの発明品は、既存の事物を破壊した。

自動車の発明により、馬産業は壊滅的な打撃を受けた。
コンピューターやロボットのせいで、人々は仕事を失う。
例を挙げたらきりが無い。

創造とは破壊である。

しかし、勘違いしてはならない。
破壊は創造ではない。
創造した結果、破壊が起きたのだ。

批判的思考は、毒でもあり薬でもある。
日本では、あまり馴染みのない考えだが、やっている人はやっている。
MAZDAのスカイアクティブエンジンの開発話などを鑑みると、批判的思考そのものだと私は考えている。
私は日本人に考えることを奨励したい。

2016年1月25日月曜日

批判的思考 02

批判的思考はアメリカの大学で盛んに取り上げられる。
インターネットでwhy is critical thinking importantと調べて見ると、英語圏の大学の英語科のウェブサイトにたどり着いた。

批判的思考は哲学科ではなく、英語科の範囲になるようだ。
英語科のサイトによると、「批判的に読め!」との事だ。
文献に書いてあることを鵜呑みにするのでは無く、一つ一つを精査して読むことが大事だと。

私事だが、正直、私も最初すごく戸惑った。
「批判的に読め?そんな事をしたらキリがないぞ」と。
屁理屈言うなと、よく怒られていた私は天性の批判家だったようだ。

すこし、脇道にそれるが、批判と非難の違いを明確にしておきたい。
批判は、事実を提示する作業だ。
非難は、感情的な攻撃だ。
残念なことに、批判が非難と認識されることがある。
たとえば、「彼は嘘つきだ」と、事実を提示したにもかかわらず、「毒舌だねー」となる。
面白いことに、批判を非難と捉える人は、攻撃するのが大好きだ。
魚を見て、魚肉を思い浮かべるのと同じだ。
逆に、批判を非難と捉えない人は、事実を好む。
そして、批判から得られる事実かも知れない事象を何よりも大事にする、非常に貴重な人だ。

話を戻そう。
アメリカの大学では入学後、最初に英語の論文の授業を取ることになる。
なぜならば、多くの授業の必須科目だからだ。
化学でも論文、社会学でも論文、映画でも論文。
これでもか、というほど読む、そして書く。
読んだら、引用して書く。
引用した物を、論理的に筋立てて組み立てていく。
そうやって、批判的思考と論理的思考を血肉と化す。
さらに、クラス内で議論する。

議論は討論ではない。
DiscussionとDebateの違いだ。
討論は、テーマがあり、是非に別れて論議し、勝ち負けを決める勝負だ。
アメリカの大学にはディベート部というクラブ活動もあるが、ディスカッション部というクラブ活動は聞いたことがない。
ディスカッションは、お互いの意見の主張する対話だ。
勝ち負けよりも、模索に近いと私は思う。
ディスカッションしたかったら、大学街にある酒場に行ってみるといい。
あーでもない、こーでもない、と様々な議論が繰り広げられている。
相手と意見が違う事が当たり前なアメリカ文化では、互いの意見を述べあうことは、当たり前だ。
そうやってお互いを知り合うのだ。
非常に知的な人たちの会話方法だと、私は考えている。

2016年1月24日日曜日

批判的思考 01

批判的思考、Critical Thinking、クリティカルシンキングは、アメリカの高等教育で重要視されている思考方法だ。
物をよく考えろ、って事を大学に入って初めて学ぶ。
アメリカの大学では、論文を書くクラスが必修とされていて、English101とかUniversity Writingとか、名前は違えどもやることは一緒。
論文を書くには、トピックが必要だ。
そして、トピックに沿った主張と証拠を用いて書く練習をする。
論理的であることが求められる。
そして、論理的に、批判的思考をすることが大事だと言うことを、散々教えられる。

まず、論理的思考から説明する。
そして、その次に批判的思考を説明しようとおもう。

論理的思考とは、単純明快だ。
我々が日々やっている理由付け、屁理屈、言い訳という部類は、この論理的思考に該当する。
たとえば:賞味期限は明日まで、「だから」、今日食べよう。
文の前半で理由を述べていて、だから、という接続詞を使って後半の文が行為を表している。
他にも、雪が凍って危ない、だからゆっくり歩こう。

私は子供の頃に、先生によく「屁理屈言うな」と怒られた。

先生「どうして、ハナちゃんを叩いたの。駄目でしょう。」
私「だって、ハナちゃんが僕の悪口言ったんだもん。」
先生「屁理屈言わないの。男の子が女の子を叩いちゃ駄目でしょう。」

僕は悪口を言われた、だからハナちゃんを叩いた。
ハナちゃんが僕の悪口を言ったから、僕はハナちゃんを叩いた。
屁理屈だと断定されたが、論理的には正しい。
もっといえば、「ムシャクシャしたから」「好きだから」も論理的には正しい。
論理的に正しくないのは、「リモコンが壊れた。そして、ハナちゃんを叩いた。」
これは、論理学に間違っている。ただたんなる、接続詞の問題でもあるが。

しかし、論理的に正しいからといって、正しいわけじゃ無い。
これは、読者の皆さんもよくご存じの事だろう。
「ムシャクシャしたから、叩いた」なんて、言語道断。

批判的思考は、論理的に正しいけど、本当に正しいのか、よくよく論理的に考えようという、思考方法だ。

少し話はずれるが、アメリカの大学は批判的思考の他にリーダーシップを重要視する。
何故か?
それは、アメリカの大学は集団の長「エリート」を養成する教育機関だからだ。
ヨーロッパの大学の始まりは、神についての研究:神学を重要視していた傾向がある。
それが、たとえば、イギリスのボーディングスクール・大学も、神学教育から始まった物の、エリート養成所と姿を変えた。
神学では飯は食えないし、戦争には勝てないし、経済も良くならない。
集団を引っぱる人間が必要とされてきた、という需要があったのだろう。

集団のトップが論理的思考だけできて、批判的思考が出来ないと、集団に大きな不利益をもたらす事がある。
第二次大戦の日本が良い例だ。
日本は神の国だ、だから負けるわけが無い。
論理的に正しい。が、果たして正しいのか。
批判的思考は、それを吟味する。

日本とは?
神の国とは?
神の国が勝つとは?
負けるとは?
負けるわけがないとは?

一つ一つを精査し、証拠で説明する。

では、次に、具体的にアメリカの大学でどのように教えているのか。
それは、次のブログで。