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2016年2月17日水曜日

学者に二種あり

先日ね、私の一番弟子と久しぶりに会ったのよ。
彼とはかれこれ5年のつきあいになるね。
たったの5年だけど、今後の彼の飛躍を考えると、頼もしい気持ちで一杯だよ。
私なんかより、断然出来が良い。
名選手、名監督にあらずと言うけど、名監督、名選手にあらずでもある。
私は失敗ばかりして失敗から色々学んだけど、しなくてもいい失敗ってのもある。
それをよく聞いて、理解して、避けて進んでくれるってのは、ありがたい限りだよ。

彼もまだ23とかだから、若者らしく人生なにをしたらいいか分からない、まだそんな年頃で。
色々と経験をしているけど、芯となるモノが欠けている感じ。
本人もそれを分かっていて焦っているんだけど、焦る必要も無いけどなぁ、と横目で見ながら思っていた。
若気の至りってそんなもんだ。

日米のベンチャー企業の違いを彼から聞いた。
また、私自身、思ったことを綴っていこうと思う。
この記事は思索の途中の雑記になる。
読者諸君も同じく思索して欲しい。

アメリカ政府主導でベンチャー企業を推進するプログラムがある。
SBAと呼ばれる部署で、各省庁から金を引っぱってきては、ベンチャーに投資をしている。
この投資先というのが、主に大学出の博士号を持っている人たち。
工学系は勿論のこと、社会学、心理学、教育学など様々な分野にわたり、その分野の特許などを保持している人たちが中心となって、事業を興す。

日本も、アメリカほど活発ではないが、似たようなシステムがある。
学者風情が商いに手を出して、成功するはずがないという風潮があるような気もする。
たしかに、アメリカのトロフィースクールと呼ばれるトップ大学のビジネススクールの生徒は生き馬の目を抜く様な眼をしていて、いかにも、という雰囲気を出していた。
そんな世界に、好奇心旺盛の眼をした学者が入っていったら、眼を抜かれてしまうのも、わからないでもない。

ベンチャーというと、フェイスブックを思い浮かべる人が今のご時世多いだろう。
ウェブサービスを提供する会社だ。
昨今のITベンチャーブームは、特許保持者が始めるより、アイディア
保持者が具現化している所がある。
特許もアイディアなんだが、日本の場合社会科学での博士に金を出している連中はアメリカと比べて少ない。

また、工学系の博士は、そのまま日本のメーカーへと流れていく。
ここが、アメリカと日本の大きな違いではないだろうか。
現在のソフトウェア全盛の時代の少し前、ハードウェアの時代を振り返ってみる。
そうすると、アメリカのフェアチャイルドやらインテルやらのシリコンバレーのスタートアップをしていた時代に、日本ではメーカーが社内の研究所で開発を進めていた。

アメリカで研究開発をしていたのは博士号所持者だったが、日本のメーカーで研究開発をしていたのは博士号所持者ではない。
ここが、一つの大きなミソだ。

批判的思考とは何か、という拙著の記事を思い出してもらいたい。
日本の大学では全く問題にされていない課題であり、さらに日本の大学出の人たちが就職するために受ける試験でも、問題にされてはいない。
彼らが課題として課されるのは、決められた事を与えられた時間内で素早く正確に答えることであり、答えのない問題を考え続けることではない。

答えのない問題を考え続けること。
実はこれ、アメリカでは、大学で教えられるんです。
そして、アメリカでは、答えのない問題を考え続けることは、一部の学者のような知的な人たちだけがやってるんです。
何故なら、彼ら学者は、そう訓練されたからです。
それ以外の人たちは、そんな事しないのです。

研究開発に答えはありませんから、答えを見つけ出さないといけません。
そんなの、実は、みんな出来るはずなんですよ。
実際にやってきたのが、日本ではないでしょうか。
だから、博士なんか取って学者なんかにならなくても、研究開発の仕事が出来るようになる。
そして、批判的思考なんかも、導入する必要がなかった。

日本では、学者とは、ただの物知りです。
彼らが独自の論点を主張するのをあまり見たことがありません。
主任やら先輩やら恩師やら孔子やらが言ったことを暗記して、必要に応じて思い出す人たちです。
クイズ番組に出てくるインテリさんたちもそうでしょう。

いや、もちろん、立派な学者さんも日本にはいますよ。
理化学研究所とかに。
だけど、私は、日本にいる物知りなだけの学者というのが、アメリカにいるのか、と思ったんですよ。
アメリカという国の教育を見る限り、物知りを作る事に重点を置いていない。
また、日本という国の教育を見る限り、独自の論点や主張という事に重点を置いていない。

独自の論点や主張がなく、過去の繰り返しでは、イノベーションは出てこない。
温故知新とは、新しい気づきだが、その新しい気づきの芽を伸ばしてこそのイノベーションだ。
答えのない問題を考えるにあたって、知識量が多い方が良いとは思うが、ただの物知りになっては駄目なのだろう。

2016年1月26日火曜日

批判的思考 03

事物を一つ一つ多角的に捉えて考える。
批判的思考は新しい考え方をもたらす。
しかし、それは同時に、破壊をもたらす、と私は考える。
批判的思考は必ずしも良いとは言えない、のではないだろうか。

何故なら、批判的思考は既存の概念を破壊するからだ。
これは、アメリカという国を鑑みると顕著だと私は思う。
第二次大戦後の好景気に沸くアメリカ。
大学への進学率は未だに高いとは言えないが、大学に行く若者の数は増えた。
アメリカは自由と民主主義のために戦う、という理念の元、反共的な政策を続け戦争を続けた。
ヒッピー文化の中心地であるスタンフォード大学では、多くの若者がベトナム戦争を反対した。
彼らは、ベトナム戦争が正しくないと信じた。
政府の言うことに反抗した。
最初は白眼視された抗議運動も、全米に広がり、メディアの影響もあり、ついにアメリカはベトナムから手を引いた。

既存の概念が破壊されるとき、新しい概念が生まれる。
私はそれを、発明だと思っている。

考えてみれば、多くの発明品は、既存の事物を破壊した。

自動車の発明により、馬産業は壊滅的な打撃を受けた。
コンピューターやロボットのせいで、人々は仕事を失う。
例を挙げたらきりが無い。

創造とは破壊である。

しかし、勘違いしてはならない。
破壊は創造ではない。
創造した結果、破壊が起きたのだ。

批判的思考は、毒でもあり薬でもある。
日本では、あまり馴染みのない考えだが、やっている人はやっている。
MAZDAのスカイアクティブエンジンの開発話などを鑑みると、批判的思考そのものだと私は考えている。
私は日本人に考えることを奨励したい。

2016年1月25日月曜日

批判的思考 02

批判的思考はアメリカの大学で盛んに取り上げられる。
インターネットでwhy is critical thinking importantと調べて見ると、英語圏の大学の英語科のウェブサイトにたどり着いた。

批判的思考は哲学科ではなく、英語科の範囲になるようだ。
英語科のサイトによると、「批判的に読め!」との事だ。
文献に書いてあることを鵜呑みにするのでは無く、一つ一つを精査して読むことが大事だと。

私事だが、正直、私も最初すごく戸惑った。
「批判的に読め?そんな事をしたらキリがないぞ」と。
屁理屈言うなと、よく怒られていた私は天性の批判家だったようだ。

すこし、脇道にそれるが、批判と非難の違いを明確にしておきたい。
批判は、事実を提示する作業だ。
非難は、感情的な攻撃だ。
残念なことに、批判が非難と認識されることがある。
たとえば、「彼は嘘つきだ」と、事実を提示したにもかかわらず、「毒舌だねー」となる。
面白いことに、批判を非難と捉える人は、攻撃するのが大好きだ。
魚を見て、魚肉を思い浮かべるのと同じだ。
逆に、批判を非難と捉えない人は、事実を好む。
そして、批判から得られる事実かも知れない事象を何よりも大事にする、非常に貴重な人だ。

話を戻そう。
アメリカの大学では入学後、最初に英語の論文の授業を取ることになる。
なぜならば、多くの授業の必須科目だからだ。
化学でも論文、社会学でも論文、映画でも論文。
これでもか、というほど読む、そして書く。
読んだら、引用して書く。
引用した物を、論理的に筋立てて組み立てていく。
そうやって、批判的思考と論理的思考を血肉と化す。
さらに、クラス内で議論する。

議論は討論ではない。
DiscussionとDebateの違いだ。
討論は、テーマがあり、是非に別れて論議し、勝ち負けを決める勝負だ。
アメリカの大学にはディベート部というクラブ活動もあるが、ディスカッション部というクラブ活動は聞いたことがない。
ディスカッションは、お互いの意見の主張する対話だ。
勝ち負けよりも、模索に近いと私は思う。
ディスカッションしたかったら、大学街にある酒場に行ってみるといい。
あーでもない、こーでもない、と様々な議論が繰り広げられている。
相手と意見が違う事が当たり前なアメリカ文化では、互いの意見を述べあうことは、当たり前だ。
そうやってお互いを知り合うのだ。
非常に知的な人たちの会話方法だと、私は考えている。

2016年1月24日日曜日

批判的思考 01

批判的思考、Critical Thinking、クリティカルシンキングは、アメリカの高等教育で重要視されている思考方法だ。
物をよく考えろ、って事を大学に入って初めて学ぶ。
アメリカの大学では、論文を書くクラスが必修とされていて、English101とかUniversity Writingとか、名前は違えどもやることは一緒。
論文を書くには、トピックが必要だ。
そして、トピックに沿った主張と証拠を用いて書く練習をする。
論理的であることが求められる。
そして、論理的に、批判的思考をすることが大事だと言うことを、散々教えられる。

まず、論理的思考から説明する。
そして、その次に批判的思考を説明しようとおもう。

論理的思考とは、単純明快だ。
我々が日々やっている理由付け、屁理屈、言い訳という部類は、この論理的思考に該当する。
たとえば:賞味期限は明日まで、「だから」、今日食べよう。
文の前半で理由を述べていて、だから、という接続詞を使って後半の文が行為を表している。
他にも、雪が凍って危ない、だからゆっくり歩こう。

私は子供の頃に、先生によく「屁理屈言うな」と怒られた。

先生「どうして、ハナちゃんを叩いたの。駄目でしょう。」
私「だって、ハナちゃんが僕の悪口言ったんだもん。」
先生「屁理屈言わないの。男の子が女の子を叩いちゃ駄目でしょう。」

僕は悪口を言われた、だからハナちゃんを叩いた。
ハナちゃんが僕の悪口を言ったから、僕はハナちゃんを叩いた。
屁理屈だと断定されたが、論理的には正しい。
もっといえば、「ムシャクシャしたから」「好きだから」も論理的には正しい。
論理的に正しくないのは、「リモコンが壊れた。そして、ハナちゃんを叩いた。」
これは、論理学に間違っている。ただたんなる、接続詞の問題でもあるが。

しかし、論理的に正しいからといって、正しいわけじゃ無い。
これは、読者の皆さんもよくご存じの事だろう。
「ムシャクシャしたから、叩いた」なんて、言語道断。

批判的思考は、論理的に正しいけど、本当に正しいのか、よくよく論理的に考えようという、思考方法だ。

少し話はずれるが、アメリカの大学は批判的思考の他にリーダーシップを重要視する。
何故か?
それは、アメリカの大学は集団の長「エリート」を養成する教育機関だからだ。
ヨーロッパの大学の始まりは、神についての研究:神学を重要視していた傾向がある。
それが、たとえば、イギリスのボーディングスクール・大学も、神学教育から始まった物の、エリート養成所と姿を変えた。
神学では飯は食えないし、戦争には勝てないし、経済も良くならない。
集団を引っぱる人間が必要とされてきた、という需要があったのだろう。

集団のトップが論理的思考だけできて、批判的思考が出来ないと、集団に大きな不利益をもたらす事がある。
第二次大戦の日本が良い例だ。
日本は神の国だ、だから負けるわけが無い。
論理的に正しい。が、果たして正しいのか。
批判的思考は、それを吟味する。

日本とは?
神の国とは?
神の国が勝つとは?
負けるとは?
負けるわけがないとは?

一つ一つを精査し、証拠で説明する。

では、次に、具体的にアメリカの大学でどのように教えているのか。
それは、次のブログで。