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2016年2月19日金曜日

愛をささやく。君に。

愛してる

とても、とても。

愛しい君なしの

人生なんて無いと思ってる。

それほど

重要なんだ。

今思えば

一時期

俺が日本に居るとき

毎日一緒だったよね。

毎日だと退屈になってしまったね。

今ではそれも、俺の思い出の一部だよ。

今週は二回あったね。

来週は四回もあるよ。

その後も結構あるよね。

一緒に過ごせる時を

こころから

うれしく思う。

君のおかげで

このボロボロの

おれもいやされてる

と思うんだ。

君のおかげで

ゆっくりと寝られるんだ。

ほんとうに。

ほんとうに。

これからも

ずーっと

一緒にいたいね。

愛してるよ。
















心から愛してるよ、休日。

2016年2月17日水曜日

学者に二種あり

先日ね、私の一番弟子と久しぶりに会ったのよ。
彼とはかれこれ5年のつきあいになるね。
たったの5年だけど、今後の彼の飛躍を考えると、頼もしい気持ちで一杯だよ。
私なんかより、断然出来が良い。
名選手、名監督にあらずと言うけど、名監督、名選手にあらずでもある。
私は失敗ばかりして失敗から色々学んだけど、しなくてもいい失敗ってのもある。
それをよく聞いて、理解して、避けて進んでくれるってのは、ありがたい限りだよ。

彼もまだ23とかだから、若者らしく人生なにをしたらいいか分からない、まだそんな年頃で。
色々と経験をしているけど、芯となるモノが欠けている感じ。
本人もそれを分かっていて焦っているんだけど、焦る必要も無いけどなぁ、と横目で見ながら思っていた。
若気の至りってそんなもんだ。

日米のベンチャー企業の違いを彼から聞いた。
また、私自身、思ったことを綴っていこうと思う。
この記事は思索の途中の雑記になる。
読者諸君も同じく思索して欲しい。

アメリカ政府主導でベンチャー企業を推進するプログラムがある。
SBAと呼ばれる部署で、各省庁から金を引っぱってきては、ベンチャーに投資をしている。
この投資先というのが、主に大学出の博士号を持っている人たち。
工学系は勿論のこと、社会学、心理学、教育学など様々な分野にわたり、その分野の特許などを保持している人たちが中心となって、事業を興す。

日本も、アメリカほど活発ではないが、似たようなシステムがある。
学者風情が商いに手を出して、成功するはずがないという風潮があるような気もする。
たしかに、アメリカのトロフィースクールと呼ばれるトップ大学のビジネススクールの生徒は生き馬の目を抜く様な眼をしていて、いかにも、という雰囲気を出していた。
そんな世界に、好奇心旺盛の眼をした学者が入っていったら、眼を抜かれてしまうのも、わからないでもない。

ベンチャーというと、フェイスブックを思い浮かべる人が今のご時世多いだろう。
ウェブサービスを提供する会社だ。
昨今のITベンチャーブームは、特許保持者が始めるより、アイディア
保持者が具現化している所がある。
特許もアイディアなんだが、日本の場合社会科学での博士に金を出している連中はアメリカと比べて少ない。

また、工学系の博士は、そのまま日本のメーカーへと流れていく。
ここが、アメリカと日本の大きな違いではないだろうか。
現在のソフトウェア全盛の時代の少し前、ハードウェアの時代を振り返ってみる。
そうすると、アメリカのフェアチャイルドやらインテルやらのシリコンバレーのスタートアップをしていた時代に、日本ではメーカーが社内の研究所で開発を進めていた。

アメリカで研究開発をしていたのは博士号所持者だったが、日本のメーカーで研究開発をしていたのは博士号所持者ではない。
ここが、一つの大きなミソだ。

批判的思考とは何か、という拙著の記事を思い出してもらいたい。
日本の大学では全く問題にされていない課題であり、さらに日本の大学出の人たちが就職するために受ける試験でも、問題にされてはいない。
彼らが課題として課されるのは、決められた事を与えられた時間内で素早く正確に答えることであり、答えのない問題を考え続けることではない。

答えのない問題を考え続けること。
実はこれ、アメリカでは、大学で教えられるんです。
そして、アメリカでは、答えのない問題を考え続けることは、一部の学者のような知的な人たちだけがやってるんです。
何故なら、彼ら学者は、そう訓練されたからです。
それ以外の人たちは、そんな事しないのです。

研究開発に答えはありませんから、答えを見つけ出さないといけません。
そんなの、実は、みんな出来るはずなんですよ。
実際にやってきたのが、日本ではないでしょうか。
だから、博士なんか取って学者なんかにならなくても、研究開発の仕事が出来るようになる。
そして、批判的思考なんかも、導入する必要がなかった。

日本では、学者とは、ただの物知りです。
彼らが独自の論点を主張するのをあまり見たことがありません。
主任やら先輩やら恩師やら孔子やらが言ったことを暗記して、必要に応じて思い出す人たちです。
クイズ番組に出てくるインテリさんたちもそうでしょう。

いや、もちろん、立派な学者さんも日本にはいますよ。
理化学研究所とかに。
だけど、私は、日本にいる物知りなだけの学者というのが、アメリカにいるのか、と思ったんですよ。
アメリカという国の教育を見る限り、物知りを作る事に重点を置いていない。
また、日本という国の教育を見る限り、独自の論点や主張という事に重点を置いていない。

独自の論点や主張がなく、過去の繰り返しでは、イノベーションは出てこない。
温故知新とは、新しい気づきだが、その新しい気づきの芽を伸ばしてこそのイノベーションだ。
答えのない問題を考えるにあたって、知識量が多い方が良いとは思うが、ただの物知りになっては駄目なのだろう。

2016年1月21日木曜日

点の文と線の文

文の解釈は、読み手次第だ。
「羊飼いはジンギスカンを食う。」という文をためしに作った。
この文を品詞分解してみると、羊飼い/は/ジンギスカン/を/食う。
一単語一単語、読み手によって解釈が異なる。

羊飼いとは、なんだろうか。
ジンギスカンとは、なんだろうか。
食うとは、なんだろうか。

羊飼いとは、幼稚園の劇で羊飼いの役をやった書き手を指し、ジンギスカンとは北海道料理の事であり、食うとは食物をかんでのみ込む事だ。
と、解釈する人は、私の知っている限り独りだけ居る。
彼は、私が劇で羊飼いの役をやった事を知っており、ジンギスカンが北海道料理の事で、食うとは食物をかんでのみ込む事であることを知っており、さらに、私がジンギスカンを食った事を知っている人間だ。

多くの読み手は、こんな些細な特殊事情を知らず、
羊飼いとは、羊を保護し飼育し放牧する労働者であり、ジンギスカンとは北海道料理の事であり、食うとは食物をかんでのみ込む事と解釈するだろう。

ひねくれ者は、「羊飼いはジンギスカンを食う。」を読んでニヤニヤしてしまうだろう。
「あれれ~、羊飼いが羊食ってるー。おっかしぃなぁー。」と。

このように、文ひとつでも、多様に解釈が可能だ。
私は、このような文は点の文と考えている。
読み手に文脈の補完をしてもらう。
そして、その文脈は読み手の心を表している。

線の文とは、逆に読み手に文脈の補完をさせない、または点の文より少ない。
「迷える羊とも呼ばれる常にすがる対象を求める人々は、彼らのすがる対象である羊飼い的役割をする人々の生命を維持するための道具になりえる。カルト教団やブラック企業などが、良い例だ。」
線の文も、さらに大きな線の文脈に埋め込みが可能だ。
プログラミングそっくりだと、私は斯様に考えております。

ドーナツを見るな、ドーナツの穴を観ろ!
ドーナツの穴を見るな、ドーナツを観ろ!