認識させられる訓練を受けたら、もうそこから抜け出せない。
人類の偉大な発見は火より時間の概念ではないだろうか。
火は見えるが、時間は見えない。
考える事によって、概念が出来、その概念の上に様々な概念が被さる。
他の動物はこれが出来ているのだろうか。
火は見え、あつい。
いやでも認識する。
認識しなかったら火事だ。
しかし、時間はどうだろう。
たしかに時は流れる。
子供は大きくなっていくし、水は上から下へ落ちる、元素は崩壊する。
しかし、それは変化を捉えただけの事では無いか。
時間という概念が発見され、色々な概念があり、そこに空想が生まれる。
時間が止まったら、水も上から下へと落ちないし、子供も大人にならないし、元素は崩壊しないと。
日が昇り、月が昇る。
そういう物であると、思っていたならば、時間の存在には気がつかない。
とあるサイクルがあるな、と情報を記憶を覚えてきた者は気づくだろう。
毎夜毎夜、空の星空の模様がかわり、景色も変わり、天候にも傾向があると気づく。
気づいた者だけの世界であった。
はたして、どういうことであろうと、気になった狩りに出る必要のなくなった、働かない無産階級の連中は、それがどういったサイクルで行われているかを考え始めたのでは無いだろうか。
月の満ち欠けを、何回日が昇ったかを数えたのでは無いだろうか。
そして、その変化から、万物が変化していく様を感じ取ったのだろう。
つまり、時間とは変化を感じる事では無かったのだろうか。
それが積もり積もって、この近代社会。
我々は最初に時間の概念を覚え込まされる。時計を渡されて。
昨日にもどったみたーい。
昨日って何だ?と聞いたら、昨日は昨日でしょ。そんなこともしらないの?
と言われてしまいそうだ。
世界が決めたカレンダーにただ従っているだけ。
昨日に戻ったみたいという言葉は、つまり、なんら変化していない。
と、ごくわずかな変化に気づかない連中が言う言葉だ。
化粧も違うし、体調も違う、生理がきたかもしれない。
変化を表示するのに時計(数量)は使われていると、言っても過言では無いだろう。
変化を認識しなければ、時間の概念は存在しない。
なのだが、近代においては、時間は時間として、そのまま覚え込まされる。
その社会のルールにずーっと従い、間違いを犯さなければよい。
変化に気づかないのに時間に追われる。
一年という枠組みが終わったら二年生。三年生。四年生。
ドロップアウトと時間。
社会のルールに従えないものをドロップアウトとする。
果たして、一体どこまでなルールなのかは、そのドロップアウトの周りの環境による。
自販機から二個出てきてラッキーと言うだろう。
しかしそれは盗みと認識すれば盗みで親に怒られる。
とある行動の善し悪しを自分とつながりのある社会から判断される。
社会がイヤで、他人が大嫌いで関わりを持ちたくないと願う人間がいるならば、そいつはすべからく社会のルールを無視しまくるだろう。
切れちゃったドロップアウトだ。
明日なんて来て欲しくない。社会を拒絶。変化を目にしないため娯楽漬けか瞑想の世界へと入り込むだろう。
そうではないドロップアウトはどうだろう。
そうした場合、そいつの属する社会を見ないと何とも言えない。
定義によって変わるのでは無いだろうか。
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