物をよく考えろ、って事を大学に入って初めて学ぶ。
アメリカの大学では、論文を書くクラスが必修とされていて、English101とかUniversity Writingとか、名前は違えどもやることは一緒。
論文を書くには、トピックが必要だ。
そして、トピックに沿った主張と証拠を用いて書く練習をする。
論理的であることが求められる。
そして、論理的に、批判的思考をすることが大事だと言うことを、散々教えられる。
まず、論理的思考から説明する。
そして、その次に批判的思考を説明しようとおもう。
論理的思考とは、単純明快だ。
我々が日々やっている理由付け、屁理屈、言い訳という部類は、この論理的思考に該当する。
たとえば:賞味期限は明日まで、「だから」、今日食べよう。
文の前半で理由を述べていて、だから、という接続詞を使って後半の文が行為を表している。
他にも、雪が凍って危ない、だからゆっくり歩こう。
私は子供の頃に、先生によく「屁理屈言うな」と怒られた。
先生「どうして、ハナちゃんを叩いたの。駄目でしょう。」
私「だって、ハナちゃんが僕の悪口言ったんだもん。」
先生「屁理屈言わないの。男の子が女の子を叩いちゃ駄目でしょう。」
僕は悪口を言われた、だからハナちゃんを叩いた。
ハナちゃんが僕の悪口を言ったから、僕はハナちゃんを叩いた。
屁理屈だと断定されたが、論理的には正しい。
もっといえば、「ムシャクシャしたから」「好きだから」も論理的には正しい。
論理的に正しくないのは、「リモコンが壊れた。そして、ハナちゃんを叩いた。」
これは、論理学に間違っている。ただたんなる、接続詞の問題でもあるが。
しかし、論理的に正しいからといって、正しいわけじゃ無い。
これは、読者の皆さんもよくご存じの事だろう。
「ムシャクシャしたから、叩いた」なんて、言語道断。
批判的思考は、論理的に正しいけど、本当に正しいのか、よくよく論理的に考えようという、思考方法だ。
少し話はずれるが、アメリカの大学は批判的思考の他にリーダーシップを重要視する。
何故か?
それは、アメリカの大学は集団の長「エリート」を養成する教育機関だからだ。
ヨーロッパの大学の始まりは、神についての研究:神学を重要視していた傾向がある。
それが、たとえば、イギリスのボーディングスクール・大学も、神学教育から始まった物の、エリート養成所と姿を変えた。
神学では飯は食えないし、戦争には勝てないし、経済も良くならない。
集団を引っぱる人間が必要とされてきた、という需要があったのだろう。
集団のトップが論理的思考だけできて、批判的思考が出来ないと、集団に大きな不利益をもたらす事がある。
第二次大戦の日本が良い例だ。
日本は神の国だ、だから負けるわけが無い。
論理的に正しい。が、果たして正しいのか。
批判的思考は、それを吟味する。
日本とは?
神の国とは?
神の国が勝つとは?
負けるとは?
負けるわけがないとは?
一つ一つを精査し、証拠で説明する。
では、次に、具体的にアメリカの大学でどのように教えているのか。
それは、次のブログで。
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