2016年1月19日火曜日

人間の考察

幼子は支配者である保護者から、保護という名目で様々な行動の制約を受け、主体性を発揮する場を奪われる。保護者という支配者に、支配され続けてきた被支配者である幼子は、保護という被支配されることが普通になり、それを求める。この手の幼子が、成長すると、依存的で独占的で攻撃的で感情的。当人の自主性の欠落から発する無責任な態度は、問題解決よりも、問題の攻撃的批難と逃避という行動をもたらす。そして常に縋る対象を求めて彷徨っている。優しい人か詐欺師が支配者として君臨するが、優しい人は攻撃性に傷つき去り、詐欺師はしたたかに食い物にする。
主体性の欠落した人は支配者の駒に最適だ。しかしながら完全に主体性がなくなるわけではない。ここがミソだ。支配者が命じたわけでもなく、腹は減り眠気がやってくる。異(例外有り)性を追いかけることは、ことさら支配者の命ではない。欲を満たす強欲モンスターである人間の主体性を完全に放棄させることはできない。
歴史を観れば、支配者と支配者の争いは自明だが、同じくして支配者と被支配者の争いがあった。しかし、支配者と被支配者の争いはコンピュータの発明と発展により、被支配者の淘汰という形で幕を閉じるだろう。
ここで奇妙な構図に勘の良い読者なら気がつくだろう。「支配者は被支配者がいてこそ、支配者になる。被支配者が淘汰されるなら、如何にして支配者が支配者なのだろうか。」
被支配者という道具の換わりに、コンピュータを用いるのだから、支配者はコンピュータの使い手だ。無論、物を用いるのには主体性は必要不可欠ゆえに、被支配者にコンピュータは使えない。過渡期の現在は、コンピュータに使われる人はいるけれども、彼らもよりもコンピュータの方が優れる時代が来ている。主体性の抑圧を常とする被支配者が、お荷物となるのは時間の問題だろう。勿論、その時まで支配者に保護されるが。
人間の主体性を抑圧しない環境にいる人々と、人間の主体性を抑圧する環境にいる人々との、支配者同士の争いは繰り広げられている。人間の主体性を抑圧する側は、負け続けている。そして、負ける度に、そのあおりを食らうのは被支配者である。
したたかな詐欺師の食い物にされる人々は、子供の頃の教育の影響ではないだろうか。それとも先天的なのか。
私にはまだわからない。

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