文の解釈は、読み手次第だ。
「羊飼いはジンギスカンを食う。」という文をためしに作った。
この文を品詞分解してみると、羊飼い/は/ジンギスカン/を/食う。
一単語一単語、読み手によって解釈が異なる。
羊飼いとは、なんだろうか。
ジンギスカンとは、なんだろうか。
食うとは、なんだろうか。
羊飼いとは、幼稚園の劇で羊飼いの役をやった書き手を指し、ジンギスカンとは北海道料理の事であり、食うとは食物をかんでのみ込む事だ。
と、解釈する人は、私の知っている限り独りだけ居る。
彼は、私が劇で羊飼いの役をやった事を知っており、ジンギスカンが北海道料理の事で、食うとは食物をかんでのみ込む事であることを知っており、さらに、私がジンギスカンを食った事を知っている人間だ。
多くの読み手は、こんな些細な特殊事情を知らず、
羊飼いとは、羊を保護し飼育し放牧する労働者であり、ジンギスカンとは北海道料理の事であり、食うとは食物をかんでのみ込む事と解釈するだろう。
ひねくれ者は、「羊飼いはジンギスカンを食う。」を読んでニヤニヤしてしまうだろう。
「あれれ~、羊飼いが羊食ってるー。おっかしぃなぁー。」と。
このように、文ひとつでも、多様に解釈が可能だ。
私は、このような文は点の文と考えている。
読み手に文脈の補完をしてもらう。
そして、その文脈は読み手の心を表している。
線の文とは、逆に読み手に文脈の補完をさせない、または点の文より少ない。
「迷える羊とも呼ばれる常にすがる対象を求める人々は、彼らのすがる対象である羊飼い的役割をする人々の生命を維持するための道具になりえる。カルト教団やブラック企業などが、良い例だ。」
線の文も、さらに大きな線の文脈に埋め込みが可能だ。
プログラミングそっくりだと、私は斯様に考えております。
ドーナツを見るな、ドーナツの穴を観ろ!
ドーナツの穴を見るな、ドーナツを観ろ!
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