認識とは主観的であるがゆえに、一層考える必要がある。
歯に衣着せぬ人もある。
私はそういう人を忠の人と思っているが、まわりの評価は低い。
虚礼を好む者がいるという事に若い頃は驚いたが、最近では虚礼を好まない者が圧倒的に少ないという事に驚いている。
半分半分だと思っていたが、そうではない。
虚礼を好む者が大多数という事実に、苦笑しているのである。
虚礼に我々人間どれほどの労力を費やしていることか、考えてみると唖然とする。
虚礼を廃したら、どれほどの時間と労力が節約できるのか。
「お世話になってます。」
「お疲れ様です。」
お辞儀。
例を挙げたらキリが無い。
たしかに、それも大切な仕事だ。
これを考えてみれば、虚礼を尽くされて舞い上がらせている、という事だ。
なんということだろうか!
私はそういう人間に会社の重要ポストに就いて欲しくない。
また、失礼だと考えられたくないから、礼を尽くす。
バカにされないために虚勢を張るということだ。
失礼の極みであると同時に、他人を失礼と言う輩も失礼だ。
なんということだろうか!
私は蝸牛角上の争いに巻き込まれたということだろうか。
こう考えてみると、人間というものは、なんとも面白い。
人間は考える葦どころの話ではない。
我々人間は考えるが、考えのベースに感情がある。
感情をベースに考える人間は、感情を揺さぶるだけで考えが揺れる。
このことを、よく理解した人が世に憚っているのを見かける。
一部の人は、マイノリティーになるが、感情をベースに考えることを知っているが故に、感情をベースに考えることを極力避けようとする。
こういう人に対して、虚礼を尽くすと、変な感じになる。
彼らは、嘘よりも真実という劇薬を好む。
得がたき忠義の士と福澤諭吉の学問のすゝめにはあるが、斯様な人の事を言うのだろう。
勝負の世界に於いて、感情に流される輩は危うい。
この宇宙は勝負の世界ではないが、この宇宙は勝負の世界を包摂している。
そして、勝負の世界には、感情に流される人と流されない人とが居る。
人々は組織を作り、日々争っている。
まるで、司馬懿のように。
まるで、諸葛亮のように。
人間とは何かを知る人が、道とは何かを知る人が、確かに居る。
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