福永光司氏の本と出会ったのは、シアトルの紀伊國屋だった。
荘子・内篇を買った。
私は、本の難しさに舌を巻いた。
鵬鯤の話から始まる内篇。
北の海にでかい魚が居て・・・
なんだこれ?意味が不明すぎる。
諦めずに、かじりつくも、ちんぷんかんぷんで、お手上げ状態だった。
トイレの積み書となった、荘子だった。
ある日すべてをすっ飛ばしてあとがきを読んだ。
それは、福永氏が荘子を大東亜戦争の支那戦線へ携えて持って行ったという話だった。
万葉集・パイドン・死に至る病・荘子を持っていったそうだ。
荘子だけが、戦地での彼を慰めたという。
戦地に駆り出された、大学を卒業したばかりのインテリ。
大きな渦に、抵抗もなく巻き込まれていく運命。
まさに、荘子が痛快に描き出す人間社会の不可思議を、彼は戦地で身を以て体感した。
私は、あとがきを読み終えた後、すぐさま分からない所は飛ばして読み進めた。
胡蝶の夢という、話がある。
ある日寝ていたら、夢の中で蝶になっていた。
ひらひらと、優雅に、自由に飛ぶ蝶。
そこで、目が覚めた。荘子だった。
荘子は考えた、いや、待てよ。蝶が夢見て、荘子になったのか、それとも荘子が夢を見て蝶になっていたのか。
荘子の結論は、どっちでもいいじゃん。
現在をただただ生きる。
力まない。無駄なことはしない。
不思議な、的を射た哲学だ。
西洋の進歩主義を鼻で笑う荘子が思い浮かんだ。
と、同時に退廃的だと鼻で笑う近代人が思い浮かんだ。
荘子-古代中国の実存主義は、荘子の言葉を引用しながら、荘子が生きた時代や出来事を、物語として楽しめる。
福永氏の荘子に対する想いが詰まった良書だ。
本屋には於いてないし、Amazonだったら中身がわからない。
物を大切にする日本人ならではの、神保町古書文化ではないだろうか。
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