2016年1月29日金曜日

忠とは何だろうか? 01

鹿児島の鹿屋基地へ行って参りました。
零戦見ました。
軽々と、ヒョイっと上がって、おおおおおってなりましたね。
エンジン音が随分モダンだなぁと思ってたら、やはりエンジンは載せ替えたモノらしいですね。
アメリカの航空ショーで、カーチスP40の五機編隊を見たことがあります。
アメリカのモノはやはり、アメリカ。日本のモノはやはり日本。
作った人の人柄というものが出ている気がします。

海上自衛隊航空隊鹿屋基地にある史料館、知覧平和会館も見学したところ、忠とは何かと考えました。
史料館と平和会館の論調の違いを感じたからです。
特別攻撃隊員の志は類を見ないものだと思います。
まさに忠義の士と言えます。

平和会館に韓国人の団体観光客が来ていました。
彼らは一体どういう風に見ていたのか、気になりました。
立場が違えばモノのとらえ方も変わりますからね。

山本五十六は、開戦に反対していましたが、開戦が決定されると、果敢に決行しました。
大西瀧次郎は、戦況が悪くなり特別攻撃を推進し、戦後割腹自決をしました。
それを思うと、忠とは何だろうと考えざるを得なくなりました。

当時の日本に忠臣は居たのかと思いました。
当時の日本で戦争を本当に反対した人は居たのだろうか、と言うことです。
諫めやすい事を諫めることは簡単です。
しかし、諫めにくい事を諫める事は難しい。
本佐録にはこうあります。「諫めがたきを諫むるを忠臣」と言うと。

開戦が決定された時、自らの腹を切って戦争を反対した軍人は居たのでしょうか?
開戦を推進しようと、血気盛んにクーデターまでやった若い将校が居たことは226事件などを見れば、想像が付きます。
もちろん、彼らも国の事を考えたうえでの行動だと思います。
同様に、国のことを考えて、開戦を反対した忠義の士は居たのか、という疑問です。

漢籍の一つ、史記に屈原という男の話があります。
春秋戦国時代の政治家です。
彼は、自分の国の楚の王様が他国の秦の謀略に踊らされて戦争をしようとしているのを、必死に止めようとしました。
しかし、王様は屈原の諫めを聞かずに、屈原は左遷。
楚は秦にボコボコにされ、屈原は自害しました。

彼の作った漢詩は、武士の必読書の四書五経の一つである詩経に載っています。
離騒という題です。
是非一度読んでみて下さい。

そして忠とは何かを考えてみて下さい。
死をも厭わない人間を死なせる事になる。
これが国益なのでしょうか。

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